データベース『えひめの記憶』
四国中央市
尾藤二洲(1747~1813)
儒学者、昌平黌(しょうへいこう)教授。宇摩郡川之江村(現、四国中央市川之江町)出身。本名は孝肇(こうちょう)。通称は良佐(りょうすけ)。5歳のとき右足の大怪我がもとで足が不自由となったが、二洲の将来を思った祖父の勧めで、学問で身を立てる決意をし、川之江の宇田川楊軒(うだがわようけん)に荻生徂徠(おぎゅうそらい)の教えを学んだ後、24歳で大坂に出てさらに学問に励んだ。学び続ける中で徂徠の教えへの疑問を持った二洲は、朱子学(人を敬うことを忘れず行いを慎んで人格完成しようとする実践道徳)と出会う。徂徠の教えから朱子学に転じた二洲は大坂に私塾を開き、朱子学の普及に尽くす。
寛政の改革を推し進めた老中の松平定信により、幕府の学問所である昌平黌教授となり、約20年間にわたり、朱子学を再び盛んにすることに努力し、柴野栗山(しばのりつざん)・岡田寒泉(おかだかんせん)とともに寛政の三博士と呼ばれた(後に、三博士は、岡田寒泉に代わり古賀精里〔こがせいり〕が入った)。(『愛媛人物博物館~人物博物館展示の愛媛の偉人たち~』より)
①尾藤二洲像 四国中央市川之江町2217-83(高原ふるさと館前) |
②生誕地の碑Ⅰ 四国中央市川之江町(八幡神社対岸) |
③生誕地の碑Ⅱ 四国中央市川之江町(八幡神社対岸) |
④川之江城の頌徳碑 四国中央市川之江町 |
⑤川之江城の歌碑 四国中央市川之江町 |
⑥二洲学舎のあった妙蓮寺 四国中央市川之江町1781 |