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柳谷村誌

第三章 天災

 西南日本の外帯に位置する我が村は、黒潮からの雨雲の北上を、四国カルスト台地が阻んで、外帯の海岸地帯をこえる多雨地帯となる。わけて晩夏から中秋にかけての台風期には、台風進路が近接すること多く、風害を伴う出水の災害に年数回見舞われる。たとえ進路が、東側・西側いずれの北上であるにせよ、台風圏内である限り、その風水被害は免かれない。だからわが村の天災は、風水害がほとんどである。遠く庄屋制のころからの災害記録を抜き書きしてみる。元和四(一六一八)―八―四、大出水。同五(一六一九)冬、豪雪。同六(一六二〇)―六、大出水。寛永元(一六二四)―一二―一三、地震。寛文九(一六六九)、大出水、晩秋風雪による冷害。同一三(一六七三)、大出水。延宝二(一六七四)大出水。同三(一六七五)八―四、大出水。同六(一六七八)―七―一八、大出水。同七(一六七九)―八―一四、大出水。天和三(一六八三)豪雪。貞享元(一六八四)―一〇―九、大風。同二(一六八五)―五―二二、大出水。七―一、降雹。七―三〇、大出水。同三(一六八六)―五―一九、大出水。元禄四(一六九一)―八―二、風水害。などの記録でほとんど風水害が大部分を占めている。亨保一七(一七三二)―五~七、氷雨による冷害。天明二(一七八二)~天明七(一七八七)冷害による飢饉。天保四(一八三三)~同七(一八三六)冷害による飢饉。以来今日まで約一世紀に亘って、毎年数回の台風災害を含む天災が繰返えされてきた。昭和九(一九三四)―九、室戸台風。同二〇(一九四五)―九、枕崎台風。同二五(一九五〇)―九、ジェーン台風、同二六(一九五一)―一〇、ルース台風。同三四(一九五九)―九、伊勢湾台風。同三六(一九六一)―九、第二室戸台風。従来台風名は、上陸地点あるいは通過地点を冠して呼んでいたが、昨今はその年内の発生番号を冠して、何号台風と呼んでいる。
 被害状況については、以前は農作物・人畜・建物などに関わるものであったが、諸種の開発が進むにつれて、道路・溝渠・橘梁など各種工作物に関わるものが多くなった。そのうち特筆すべきものとして、昭和三八(一九六三)年八月九日の台風九号は、行方不明者一名をはじめ、龍宮橋の流失、とくに高野本川の氾濫による災害は大きく、未曽有の大被害となって、激甚災害の適用地域となった。また、昭和五七(一九八二)年八月二七日、第一三号台風(降水量、五黒電六二六・面一電四五七ミリメートル、国道三三号線柳谷洞門路面陥没)は、天災中の特例として、われわれ柳谷村民の脳裏に強く銘記されるものとなるであろう。