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柳谷村誌

六 記念碑

  (一) 記念之滝の碑(中津川之内)
 記念の滝は、県道土佐街道(現在の国道三三号線)開さくの際、時の県知事、関新平が命名した。この碑は、故関新平氏の県道開さく事業の功績をたたえ、明治二九年九月、六代目小牧県知事が碑文を記し、故関県知事の同郷佐野常民伯に「記念之滝」の題碑をもとめ、久主部落民の出夫によってこの地に建碑された。 (第二編 歴史参照)
  (二) 大寂寺殿従三位土岐頼政公碑(中津窪田)
 大寂寺は、治承四年(一一八〇)四月、頼政が久栖(久主)の館跡に、母の菩提所として創設した寺と伝えられる。頼政は、文武両道に秀でた武士として忠誠を盡くし、戦い敗れて京にたおれた。忠臣、井野早太が、頼政の位牌を奉じて帰り、大寂寺に安置したと伝えられる(第六章 伝説参照)。
 これらの伝えによって。大正八年一一月、中津村在郷軍人会は、武士道を鼓吹するため、寺の庭に、「大寂寺殿従三位土岐頼政公碑」と題するこの碑を建立したものである。
 この碑は、自然石で、幅〇、八メートル、高さ二、〇メートルである。
  (三) 千代ヶ橋の碑(柳井川川前)
 天保一五年(一八四四)三月、黒川の千代ヶ橋(現在の黒川橋より約五〇メートル下流)架設を記念して建てられたものであるが、流れて川岸に埋っていたのを、昭和五六年、川前の高橋文夫によって発見された。
この碑の大きさは、幅〇・四五メートル、高さ一・ニメートルの自然石であり、「千代ヶ橋」の題字のほかに、世話人、彦左衛門・伝太、石工、久谷村七次郎・大州大瀬村仲次と記されている。
 昔の黒川は渡しだったといわれ、人々はこの橋の架設を、いかに喜びこの碑を建てたことだろうか。
 現在地の黒川橋が架設されたのは、大正一三年であり、そうすると千代ヶ橋は、八〇年余り黒川の渡しをしていたことになる。
  (四) 岡田清次郎翁頌徳碑(西谷小村)
 岡田清次郎翁は、明治一四年、松山の三津から三坂を越えて久万山に入り、小村に居所を定めて雑貨商を営んだという。清次郎翁は大変慈愛にみちた人で、同情心厚く、他人の苦しみを自分の苦しみとして考え、村内各地で、水害・火災・病気などがあれば見舞って歩き、貧しい人には惜しげもなく金品を送ったという。しかし、家庭生活はきびしく、常にぜいたくをいましめ、物を粗末にしなかったといわれる。また清次郎翁は公共心に富み、多くの人たちの信頼を得て、村会議員として村の政治にもつくした。
 特に信仰心が深く、小村の人々と共に、新四国八十八ヶ所をつくり、村人に信仰心を広めた。
 このような業績をたたえるため、昭和一二年一月、人々は翁の胸像を西谷小村に建立した。この胸像は、昭和一八年、太平洋戦争の時供出され、昭和三四年六月、再び人々によってこの頌徳碑が建立された。
  (五) 西谷教育後援会頌徳碑(西谷大成)
 この頌徳碑は、教育の振興をはかるため、財団法人西谷教育振興会のいしずえを築いた、先人の遺徳を偲び、これをたたえて、昭和五六年一一月、西谷公民館前の広場に建立されたものである。
 碑文によって、西谷教育の振興に想を寄せ、情熱を燃やした先人たちの偉業が偲ばれる。
       碑  文
  昭和二十年一月二十六日 村長丸石繁頼 学務委員永井百蔵 稲田政之 近澤政弘 村会議員高橋数馬 村上義春 西森義元 地元委員宮部宗晴 高橋義一 学校関係者鈴木幸栄校長 大西清馬教頭等 西谷ノ最高指導者ハ西谷小学校ノ統合ヲ画策シ 西谷住民ノ納得工作ヲ進メテイタガ 合意ガ得ラレ学校用地卜実習地ヲ買収スルタメ関係地主岡田作太郎 西川政次郎 高橋柳蔵 山本源松 高橋安丸等ヲ集メ売渡シニツイテ 折衝シタ結果西谷有史以来ノ大事業ヲ理解サレ 先祖伝来ノ土地ヲ手放シ譲渡ノ承諾ガ得ラレタ 本校 名荷分校 古味分校ヲ西谷ノ中心地ココ大成ニ統合スルコトト決定シ 用地買収代金ハ寄付金ヲ募ツテ之ニアテタ 特別寄付者日発五千円 森岡悟一五千円 ソノ他西谷住民ニモ応分ノ寄付金が割リ当テラレ弐万数千円が集メラレタ 昭和二十年六月二十八日 柳谷第二国民学校ニ発起人 学校関係者 特別寄付者 土地譲渡人等が招集サレ土地買収代金壱万八千六百五拾五円也ヲ地主ニ支払ツテ感謝記念祭ヲ行イ統合ノ気運ハ最高潮ニ達シタコノ会場デ財団法人西谷教育後援会ノ設立ガ決定サレタ 終戦ノ混乱デ小学校統合ハ一時挫折ヲシタガ学制改革ニヨッテ新制中学校が大成ニ統合開校シタ 本会ノ役員ハ実習地ニ植林ヲシテソノ収益デ学校施設ヲ充実シ育英事業ヲ推進シ西谷教育ノ振興ヲ図ルコトトシタ ソノ後西谷住民ハ大字役ト称シテ無償デ労カヲ提供シ植林ノ管理育撫ニカメ収益拡大ノ基礎ヲ造ツタ 創立三十六周年ヲ記念シ本会ノ基礎ヲ築カレタ先輩二感謝シ多クノ業績ヲ沿革史二記シテソノ遺徳ヲ偲ビココニ頌徳碑ヲ建立シ顕彰スルモノデアル
  昭和五十六年十一月吉日      財団法人 西谷教育後援会
 この碑の建立とともに、沿革史「あしあと」を発刊し、西谷の学校統合に至る戦前戦後を通じての動きを記している。
  (六) 大田正志の歌碑(西谷姫鶴平)
 放牧の牛が自らつけし道
    有刺鉄線の柵沿ひに伸ぶ
 歌壇「青垣」に所属する久万町出身の大田正志氏が五段高原の放牧の情景を詠んだものである。
 この歌が、昭和四一年一一月、明治記念総合歌会に入選し、これを記念して昭和五一年八月村が主宰して顕彰会とともに姫鶴平に建立したものである。
  (七) 逗子八郎の歌碑(柳井川永野)
 黒川渓蒼き樹林の底深く
    ものの命を見せて行く水
 東京在住の歌人、逗子八郎(木名井上司朗)氏が、昭和五四年七月三〇日「四国カルスト草地開発牧道未完成分一〇〇〇メートル」に関する自然保護問題裁決のため、天狗高原に一泊し、翌三一日面河に向う道すがら黒川渓谷の情景を詠まれた一首である。
 歌碑は県道一号線が、国道四四〇号線に昇格したことを記念し、村が昭和五六年一一月三日国道四四〇号線沿いに建立した。