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柳谷村誌

一 自然伝説

 井野早太の大杉 

 久主大宮八幡神社の境内に、樹齢千年もたったかと思われるほどの、大きな杉の木がある。その昔、土岐頼政の家臣、井野早太が植えた木であるといわれている。井野早太は、都の戦で敗れ自刃した、主君頼政の位牌を、久主の大寂寺へ納めた。その時主君頼政の冥福を、大宮八幡宮に祈って植えたものであり、かつては、回り一〇メートル余り、高さ四二メートルもある巨大なものであった。地上一メートルくらいのところから、二大支幹になっていたが、昭和一八年の火災で一方は焼けてしまった。

 早虎神社の大杉 

 柳井川松木に鎮座する、早虎神社の境内に、樹齢五〇〇年余りと思われる大杉が並んでいる。その昔、平家の落人が、お早と、お虎という二人の娘を連れて、立野の岩穴で住んでいたが、ある日、お早とお虎の二人が死んでしまった。平家の落人は大変悲しんで、二人を大窪谷のふもとの方へ祀って早虎神社とした。
 お早とお虎が現われて、お神楽を舞っていると、鬼が出て来て、「松木へ上ってくれ」と頼んだ。するとお早とお虎は、「松の木はいけん、杉の木を植えたら上ってやる」といった。それで杉の木が植えられて、早虎神社は、いまフルミヤと呼ばれているところから松木へ上って行ったといわれている。この大杉は、その時のものであると伝えられている。

 弾正が嶽 

 稲村の先場部落に、河野弾正の前膳のお堂があり、そのすぐそばには、弾正の母と家来の墓と称する二つの塚がある。また、そこから急な坂道を一キロほど上ると、神宮寺の跡に祠がある。お堂の中には、高さ四〇センチほどの、不動明王が一体安置されている。昔は、弓や刀、その他の武具があり、また弾正が飯をたいていたという、足の長さが六寸の金の鍋があったが、いつの間にかなくなってしまったという。
 古くから、旧暦の二月八日と八月八日の二回、部落の人々によって、お祭りが行われている。日清、日露の戦争の時は、戦の神として多くの兵士が参拝していたという。そのすぐ横に岩のほら穴がみられ、弾正の住い跡とよく間違えられるのであるが、この地点から、険しい谷合いを二〇〇メートルほど登ると弾正が嶽である。東から西に抜ける穴があり、そこが弾正が住んでいたという鍾乳洞である。国道三三号線、落出から稲村を見ればこの嶽がよく見えている。
 南北朝のころ、河野弾正、土居備中守らは、宮方に属して戦い、桑村郡千町ヶ原の合戦に敗れて、この地に身を隠し、生涯を送ったのだと伝えられている。

 権現滝 

 百ヶ市の在所をすぎてから、奈良薮の方へ川向いの山を見ながら行くと、大きな滝があり、滝から落ちる水、青葉、紅葉、また樹氷など、四季の変化を美しく見せる滝、これが権現滝である。
 昔、法印さんがどこからかやって来た、どうしたことか村人は、「もうちょっと向こうへ行けば在所がある」と言って連れて行き、法印さんを権現滝から谷底へ押しこかした。それから七日七晩、その谷で鉦が鳴り続けた。それから権現滝の滝つぼには、片目の魚が住んでいたという。

 赤 滝 

 西谷の入口の部落である郷角の向い山に、赤さびの現われている大きな滝が見られる。この滝を人々は、赤滝と呼んでいる。昔、昔いつの頃か郷角に、お金をたくさん持っているお婆さんがいて、その金を隠すために、お婆さんは、滝に下っていた大きいかずらにつかまって滝の岩の中へ入れた。この金を、人が盗みに行ったら困ると思って、お婆さんは、このかずらを切って落してしまった。ところが、自分もその金をとりに行くことができなくなって、お婆さんは気が狂ったようになり、滝に向って、「金よ戻れよ、金よ戻れよ」と毎日呼びつづけて、とうとう滝に飛び込んで死んでしまったという。この隠されたお金のさびで赤くなり、赤滝と呼ばれるようになったといわれている。

 蛇が石 

 本谷の上の方に、大きな石があり、人々はこの石を、仕事の往き返りの休み場にしていた。その昔、この石に大蛇が七巻半巻いているのを、本谷に住んでいた弓の名人、兵衛の太夫が、郷角から、弓で射ち落したという。その時、大蛇から出た血のためか、いまでもこの石は、赤味を帯びており、蛇が石と呼ばれている。

 イナキ石 

 中津旭にある。縦一メートル、横一メートルくらいの石で、この石には、昔、弘法大師が疲れてここを通りかけ、頑張らなくてはいけない、どのくらい力が残っているかためそうと、力を入れたため、下駄の跡がつき、そのまま残っており、イナキ石と人々は呼ぶようになったという。

 八釜の龍王様 

 その昔、昼なお暗き幽谷深渕の秘境、無気味な渦を巻いて流れる八釜の底深いところに、大蛇が住んでいたという。おとなしい大蛇で、人々に害を加えるようなことは、全くなかったという。
 この大蛇が、ここに住んでいるおかげで、どんな日照りが続いても、この地方では水が枯れることもなく、人々は安心し、ほんとうにありがたく思っていた。しかしこの大蛇は、クズヅルと金物が大嫌いだった。このことは人々もよく知っていて、この附近で金物類を良うようなことは、決してしなかった。ところがどうしたことか、ある日突然この渕に、クズヅルの巻きついた鎌が流れこんできた。さあ大変、この鎌を見た大蛇は、驚くと同時に腹を立てて怒った。大蛇は、恐しいうなり声をあげ、水面に高く首をつき出した。目は真赤に燃え、大きなロからは炎を吐き、一天にわかにかき曇って、雷鳴とどろきあらしを呼んだ。激しい大粒の雨、風はうなりをたててほえ狂った。あらしはいく日たってもやもうとせず、八釜一帯は、ついに大洪水となって、人々は大いに驚き悲しんだ。この時大蛇は、狂ったように大きな尾で鎌を激しく打った。すると、鎌は八つに折れて、四方に飛び散り、そのまま見えなくなった。それと同時に、いままで続いていた激しいあらしは治まり、八釜は、再びもとの静けさに戻ったという。
 人々は、お宮を作り、この大蛇を龍神として祭り、八釜の龍王様と呼んだ。能王様は、女の神様で、大野ヶ原の小松ヶ池から、いつの間にか移り住んだともいわれている。龍は、山で千年、川で千年、海で千年の修業を終って、昇天するという。龍王様の縁日は、昔から二八日で、縁日には、近郷の人々が集い、夏の日照りには、「お水をもらう」といい、雨乞いの祈願をして、そのおかげを受けていたという。この雨乞いは、近代になってからも続けられていて、龍を見たという人、またその気配を感じ腰を抜かさんばかりに驚いたという人が多くいて、八釜の龍王様にまつわる神秘は、いまなお信じられているものもある。

 竜の川 

 川之内の前の仁淀川を竜の川と呼んでいる。そこには、松の木の生えている大きな岩がある。昔、その岩を、大蛇が七巻半巻いていて、人々は恐れおののいた。ある日猟師が岩から鉄飽で大蛇を撃ったがその岩が鉄砲岩と呼ばれている。撃たれた大蛇の腹は、二、三メートルもさけて、蛇の子が出てきたという。大蛇の血は流れ、それから、七日七夜、川は血の海となり荒れ狂ったという。人々は大蛇を龍神、水神様として祀った。竜の川、昔は竜の子川と呼ばれていたが、これがなまって竜の川となったという。

 龍宮渕 

 道路のまったく発達してなかったその昔、西谷の古味方面で切り出した木材は、黒川の流れを利用して、落出の方に連ばれていた。そのために人々は大変助かっていた。ところが、ある日突然に木材が一本も落出まで着かなくなり、いくらたっても木材は流れてこなくなった。どこかで全部なくなってしまう。
 村の人たちは、不思議に思い、木材のゆくえを確めるために、流れに沿って川を下ってみた。するとどうか、古味から流れ出た木材は、小村が見えるところまではすいすいとくるのに、そこにある大きな滝の下にある深い渕に全部すいこまれている。みんなびっくりしてしまった。「これは大蛇がいて飲みこんでしまうのだ」、「いや何でもすごい主がいてじゃましているのだ」「川底に大きな穴があり、それが地の底へつづいているのだ」とか、いろいろな意見が出た。「不思議だ、不思議だ」ばかりくり返してただため息をついているだけだった。
 この時、郷角の部落に住んでいたひとりの大工が、たまりかねて、「ひとつ、わしがその渕をさぐってやろう」と思いたった。そうして材料の吸いこまれている渕にザンブと飛びこんだ。
 どのくらいだったのだろうか、ふと気がつくと、大工はりっぱな御殿のすばらしいふとんの中に、寝かされていた。話しに聞いた龍宮とそっくりである。美しい魚がまわりを楽しそうに泳ぎまわり、ガラスのように透明な御殿は七色にまばゆく光っていた。そのうち美しい乙姫様もでて来て、大工は夢を見ているような気持になってしまった。
 すばらしいもてなしを受けた大工は、ついに何日も何日もすごしてしまった。ある日のこと、ふと建物の向うを見るとたくさんの木材が沈んでいるのに気がついた。大工は急に郷角の部落のことを思い出した。乙姫様に頼んで、今まで沈められていた木材を全部もらって大工は郷角へ帰って来た。郷角はすっかり変っていて、大工の知っている人も、大工を知っている人もひとりもいなかった。大工に会った人はみな、大工をみて何かひそひそとささやくばかりだった。大工の家のあったところは、大きな竹やぶに変り、家もなくなってしまっていた。
 大工は、しかたなく乙姫様にもらって帰った木材でお宮を建てた。郷角に立派なお宮が建ったので、村人たちもだいぶん集まってきた。しかし大工の姿はどこにも見えなかった。今郷角のところにあるお宮のはじまりは、この大工の造ったお宮だということである。

 湯の成 

 本谷の上の方に湯の成という部落がある。昔、そこに住んでいた、おばあさんの所へ、ある日、弘法大師さんが通りかかった。おばあさんは、弘法大師さんとは知らなかったけれども、親切にしてあげたので、弘法大師は、大変よろこばれて、「お礼に湯をわかして進ぜよう。」といって、持っていた杖を地に立てたら、不思議にもそこから湯がふき出した。それから湯の成へは、人がどんどん集まって来るようになったので、意地の悪いおばあさんがねたんで、ある日、馬のふんを湯の中へ投げ込むと、それから湯が出なくなってしまったという。

 お大師穴 

 昔、炭焼きの始まりのころ、炭窯をついて木を中に入れて、火をつけようとしたが、どうしても中へ火がつかない、炭焼きは困って思案していた。そこへお大師さんが通りかかって、炭窯を眺めていたが、しばらくして、「炭窯のすみに、穴をあけてみよ」といわれて立去った。炭焼きは、不思議に思いながらも、言われたとおり穴をあけると、すぐに火がついて、炭がよく焼けるようになった。空気を調節するこの穴を、その後、お大師穴と呼ぶようになった。

 お大師さんとムカデ 

 お大師さんが、ムカデがあまりきれいなので、手にのせているとかみついた。それで、お大師さんは、一日にムカデを七匹殺すと、神様に一回お参りしたのと同じくらい御利益があると人々におっしゃられた。お大師さんは、かみついたムカデにお茶をかけた。それからムカデにお茶をかけると死ぬといわれ、そのお茶を「お大師茶」という。