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柳谷村誌

第四節 万歳

 上浮穴郡に万歳が伝わってきたのは、明治時代の初期、松山近郊に万歳が始まってしばらくしてからといわれる。
 松山藩主久松定行(真常院)が在世中(一六三九~一六五六)に、上方から万歳太夫を招き、年の初めを祝って松山で演じさせたのが始まりといわれる。すなわち今から三〇〇年余り前のことである。初めは、柱揃え・三番叟など、めでたいもの尽しが唄い舞われていたが、やがて地方芸能に発展した。
 その後文化・文政時代(一八〇四~一八三〇)になって、村の祭礼などでも興行されるようになり、舞の種目や内容も多様になって、人気を博するようになった。
 温泉郡道後溝辺村の溝辺万歳、これが伊予万歳の発祥であると伝えられている。やがてこの万歳が、郡内では、当時の弘形村(美川村)大川、父二峰村(久万町)父野川に伝えられ、久万山万歳となって郡内に普及した。
 我が村でも立野万歳・永野万歳が誕生し、一座を組んで農閑期などには村内の巡業などをしていた。また中久保万歳も盛んで遅くまで伝えられていた。
 万歳舞いの鳴物は三味線、小太鼓・拍子木、踊り子は五、六名、そしてその中心的役者は、次郎松・才蔵である。
 特に次郎松は、一座の道化役でその身ぶりや、口上がこっけいで人気を呼んだ。次郎松、才蔵の掛合いは、三河万歳の流れであるが、小唄・踊りは、多分に伊予万歳独特のものである。歌詞にしても、関西から岡山、広島(備前・安芸)、四国地方の物語りを取り入れたものである。踊り子はすべて男子縞の着物の着流し、ただ一人の女形は、頭から里のベールを被り口隠しをする。万歳はなやかな時代にあっては、どこの部落でも、それぞれ太鼓や三味線、踊りの名人が居て、祝いごとなどでは必ず踊られそれはにぎやかなものであった。この万歳も太平洋戦争後は、歌詞も踊りも次第に人々から忘れられようとしているが、現在では、立野万歳だけが承継されて昔の名残りを留めている。