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柳谷村誌

第三節 秋から冬の行事

 八朔祝い 

 八月一日を八朔といい、この時期は、稲作をはじめ農作業も一段落し、二百十日、二百二十日など、風の害が心配されるところである。このような大切な時期にあたって、豊作を祈るため、米を持ち寄ってお堂に集まり、かゆをたいてお地蔵さんに供え、念仏を上げてみんなで食べ八朔を祝うところもあった。

 月 見 

 八月一五日、一五夜を名月と呼び月見をする。ススキや団子、サトイモを供える。イモ名月ともいう。

 秋の彼岸 

 九月二三日秋分の日を、彼岸の中日という。先祖をうやまい、仏壇に供物をし墓参をする。盆から日も浅く、人々の墓参も、春の彼岸ほどの往来がない。

 秋祭り 

 氏神様の祭りで、新暦一一月一三日は、村内の各神社で祭典が行われる。一四日は、ニワと呼ばれ、神輿渡御が行われる。昔は、村内各神社の祭りは、一一月六日ころから始って、一〇日まで、次々と行われていた。それぞれの家では、餅をついて供え、ごちそうをつくって、客の往来がひんぱんに行われた。昭和三〇年大字中津の合併後、村内の祭りの日を統一することになった。

 亥の子 

 一〇月の亥の日を亥の子と呼ぶが、初めての亥の子を初亥の子、二回目を二番亥の子などと呼んでいる。亥の子は、農民の収穫祝いであり、亥神様を山に送り還す儀礼と考えられている。ダイコンを入れたまぜ飯などをたいて大黒様にお供えした。子供たちはわらを束ねてイノコをつくり、イノコツキといって、亥の子歌に合せてイノコツキをする。こんな風習は村内ではあまり盛んでなく、一時姿を消していたが、近年になって復活したところもあるようである。このころになると、北風が吹き始め、こたつを入れる準備など昔はしていたものである。

 冬 至 

 新暦一二月二二日の冬至を過ぎると、昼間の時間が毎日、ヤギ(山羊)の目の長さくらいずつ長くなってゆくなどといわれた。この日をもって尊いものの再生、復活が始まるという信仰があった。冬至にカボチャを食べると中風にならないといわれている。

 年の暮れ 

 師走(一二月)になると、そろそろ、正月準備が始ってくる。一三日はオマツムカエといって、松の木を山から切ってくる。切りに行くのは一家の主人であった。松は家の裏に立てかけ、米の御飯をたいて松の枝に供えた。「お正月サマが門までみえている。」といって正月の近いことを祝った。
 このころから、正月の豆腐や、こんにゃくつくりが始められた。また餅つきのためのカシモノといって、餅の材料を洗って水につける。餅つきは、二四日ころから、二六日ころにかけて、隣近所が、イイをして行われた。
 二〇日ころから、大字をはじめ部落の暮れ勘定が行われるようになってくる。神社・寺・学校・部落事業などに伴う、それぞれの出歩の過不足計算・負担金など盆以後の半期分について決算が行われ、また役員の改選などが行われた。昔は予算をたてることなく、必要なだけ使って決算をした。今日では、ほとんどの部落が事業計画を立て、決算も年末一回となっている。
 大晦日の日までには、家の戸口に、一対の門松を立てお飾りをする。松の幹を八〇センチほどに切り、その松を割って束ね、竹の輪でしばった。これを、サイワイギと呼んだ。その中心に、三段の枝のついた一メートルほどの松と、ササのついた竹を、ショウミングエ(正面杭)と呼ばれる、門松を支えるための木に結びつけた。ショウミングエは、モミ・スギなどの木を使い、上方にしめなわを張った。しめなわは、七・五・三などの奇数にたらし、ダイダイ・ウラジロ・ワカバなどをつり門飾りとした。その外、大小のお飾りをつくり、水神様・荒神様・便所神様など、また一年間使った、スキ・クワをはじめ、農用具をきれいに洗って集め、お飾りをしてお供物をし感謝した。
 正月にくる歳神を、トシトコサマ・トシトコハッショウジンなどと呼んでおり、大晦日から一月十五日ころまで、家々に滞在すると考えていた。歳神は年棚と呼ばれる棚にまつられるが、我が村あたりでは、特別に棚はつくらず、荒神の棚と呼ばれる、ダイコクサン・エビスサンなどと一緒にまつられたようである。
 年の暮れは、節季と呼ばれ、大晦日の晩までの忙しさ、あわただしさ、昔は、普通商人への支払いも、盆と節季の二回だった。商人への支払い、借金の取立て、利子払い、賃金の請求など、半年または一年間の総勘定であり、およそ現在の人々には想像のつかない年の暮であった。