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柳谷村誌

第一節 正月行事

 正月行事は年中行事の中で最も重要なものである。正月の神は、歳神、福徳神と呼ばれるが、トシは、時間の区切りとしてのトシであるとともに、年穀のトシである。したがって、正月の神は農耕神であり、正月行事は、秋の収穫により、いったん死んだ穀霊の復活を祈り、再び豊かな稔りを期待する呪術的、祈祷的な農耕儀礼に起源をもつと考えられている。正月行事の重点は、元旦を中心とする大正月、一五日を中心とする小正月にある。大正月は元旦から七日まで、小正月は一四日から一六日までである。そのほか、この中間、小正月以後も続き、二十日正月により、正月行事は終了する。正月行事が、前年の一二月一三日の正月迎えから始まるとすると、正月は一か月以上も断続しながら続くことになる。このように昔はほとんど、正月は仕事をせずに休んだようである。

 若水迎え 

 一年の最初は、若水迎えをもって始まる。若水をくむのは男の役目で主にその家の家長である。元日の朝早く家長は、しめなわ・ユズリハ・ワカバなどを付けた桶を持ち、たいまつをつけて、船がわ(水桶のあるところ)へ水をくみに行き、その年の明方に向って、「福くむ、徳くむ、幸くむ、万の宝今くみとる」などと縁起のよい唱えごとをいいながら、桶に水をくみ取った。くんで来た水は、使いはじめの水として、茶をわかしたり、雑煮をたいたり、顔を洗うのに使った。

 年 始 

 元旦の朝は、家族揃って、神を拝み、「明けましておめでとうございます」と新年のあいさつをする。お神酒をいただき、雑者を食べる。子供たちは、隠居の祖父母にもあいさつしてお年玉を貰った。年始や年礼の行事が今日のように一般化してきたのは新しいことで、知人や同僚の間では年賀状などで行われるようになってきた。しかし、年始は、本来は一家一族の間で行われる礼儀で、親元、本家に集まり、自分たちの先祖を祀り、生きている親を祝福する儀礼であった。嫁入りした娘は、毎年、里の親へお年玉といって、かがみ餅をついて持ってあいさつをした。

 正月礼 

 正月はどこの家でも、正月礼をするといって、親子・親戚・友人の間で往来し、お寒酒を飲んで祝った。お寒酒の用意は、五入り(五升)・斗入り(一斗入り)といってたる酒をどこの家でもかまえていた。

 鍬初め 

 年頭における仕事始めの儀礼で、正月二日に行い、ウチゾメともいう。畑に、一メートルほどに切った小さい竹を二つに割り、御幣をはさみ、その年の明き方に向って立て、立てた地面に、小さい土盛りを作り、しめ飾りをつけた松を一対と、紙に包んだ餅、干し柿、みかんなどを供える。一升ますに入れた大豆を撤いたり、畑を掘り返したりするところもあった。これによって、一年の仕事が順調に進められることを願うのである。

 お日待

 正月の三日ころまでにお日待が行われた(第三章の講を参照)。

 七日正月 

 六日の夜から、七日の朝を一つの折目とし、七日正月は、大正月の神祭りの終る日、あるいは、小正月の準備開始の日と考えられていた。七日の朝は七草がゆをつくる。かゆに入れる七草は、セリ・ナズナなど特に決ってなく適当に入れていた。七草がゆは神仏に供えてから食べた。

 アワンボ 

 正月一五日ころ、アワンボを作り、これをエビスにそなえて、アワが豊作であることを願うのである。アワンボは、竹ベラの先を二つに割り火にあぶって曲げたものに、フシツクの木を、五寸位に切ったものを刺したものである。

 鬼の金剛 

 一六日は、念仏のロあけと呼ばれ、年が明けて初めて念仏を唱える日だといわれている。オニノコンゴウと呼ばれる大きなわらぞうりを作り、部落の入り口に近い、川か、谷渡しに大きなわら縄を張ってつるした。鬼がこれを見て、この部落には、こんな大きな草履をはく人間がいるのかと驚いて逃げ出し、また入ってこないようにして、その年の縁起を祝うという。またこの草履を、鉄砲でうつと、鬼をうったことになって、縁起がよいともいった。この鬼の金剛の行事は、今も続けている部落がある。

 二十日正月 

 二十日正月は正月行事の終りの日であり、仕事を休む日となっていた。ヤイト正月ともいって、ヤイをすえるのによい日だとされていた。この日、ヒダル腹(空腹)でいると、年中ひもじい思いをするといわれ、餅などを腹いっぱい食べていた。