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柳谷村誌

第二節 奉公

子守り奉公

子守りをモリサンと呼んでいた。昭和一〇年ころまでは、子守り奉公が多くみられた。当時の農家は嫁も大きな労働力とならねばならなかったので、子供が生れると子守りを雇った。子守りは村内で雇う場合もあるが、土佐(梼原方面)から雇ってくることが多かったようである。子守り奉公に出す家庭は、子供が多勢いて貧乏であり、クチベラシのためでもあった。モリサンは、たいてい、一〇歳から一二、三歳までの女の子が多かった。モリサンは、子供を背負って学校へ行くこともあったが、ほとんど行かれなかったようである。子守りには、食べさすのと、シキセといって、年に二回くらい、盆と正月に着物とたびくらいを買ってあたえた。また少ない給金でもはらうことになっている場合は、親が遠方からでも、わざわざとりに来ていた。
 この時代、農家では、少しの労力でもほしく、子供が大きくなると、下の弟や妹の子守りをさせ、雇っている子守りには、農事の手伝いをさせたりもした。

 あらしこ 

 男の奉公人をあらしこ、女をおなごし、ねえ、などと呼んでいた。農家では奉公人を雇うのは、大きな農家であり、各部落ではごく少ない数であった。年季奉公(五年くらい)は住み込みであった。当時の農家の労力は、すべて人力か畜力に頼っていたので、重労働の連続であった。夏の農作業のあい間は、肥草刈り・牛の草刈り、冬は薪切り、雨や雪の日は、なわないにぞうり作り・俵あみ・ヤグラでの米つきなど、時には主人に代って組づきあいに出役しなければならなかった。奉公人の出替りは、一二月一六日で、やぶ入りともいう。盆・正月・氏神様の祭り、節句などには、一日または、半日の休みがあたえられた。給金といったものは、現金で支給されるのが大部分であったが、具体的に金額は、はっきり決めてない場合が多かったようである。奉公人は、各家においては家族員と同じような扱いは受けていたが、食事や風呂は一番後になっていた。食べるものとか量のへだては普通なかったようである。年齢は、一四、五歳から二〇歳前後が多く、奉公先で認められて、養子とか嫁に行く機会も多かった。

 弟子入り 

 明治の時代から、大工・左官などの職人になるためには、すべて弟子入りからはじまり、修業は技術を身につけることと、きびしい人間教育の両方だった。大工は、弟子入りから二年程は、炊事・掃除などの雑用・板けずり・穴掘りくらいをさせてもらうのみで、墨つけや、切り組みができるようになるまでには、五・六年もかかった。そう親切に教えてくれる師匠は少なく、すべて見習いによって、自ら覚えこまなければならなかった。きびしさをこぎぬけ、やがて年季が明けると、後一年間、お礼奉公をしてやっと一人前になるのである。
 左官の弟子もまた、土運び、土ねりから始まり、一人前の左官になるためのきびしさは同じであった。

 でっち奉公 

 大正から昭和のはじめにかけて、でっち奉公として、松山や大阪方面の商家、主として呉服・金物店などへの奉公をするものが多かった。辛抱して奉公のあかつきには、のれん分けといって、小さい店を出してもらえる。しかしそれまでの数年間、他人の飯を食うきびしさは、容易なものではなかった。