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柳谷村誌

三 年齢集団

 子供組 

 現在の子供会などに相当する、子供グループで、子供連中などの名称で呼ばれていたこともあり部落単位に組織され、各種縁日の子供相撲、秋祭りなど、年中行事に深いかかわりあいをもって活動した。

 若者組 

 若い衆連中・若い衆組・若いもん組などと呼ばれ、我が村でも、明治後半ころまでは存在していたようである。その後、青年会・処女会に変り、今日の青年団になった。青年をワカイシと呼んでいるが、これらが若い者組に加入できるのは、一五歳前後であった。その年齢に達すると、村の神社の境内に集まり、相撲をとったり、一八貫から二〇貫もある大きな石をかついだりする。この石を力石・ママゴ石などと呼んでいる。この石を持ち上げて地面よりちょっとすかすことができるのをアリコロシと言っていた。
 若者組への加入についてタブサといわれる儀式があった。これは、江戸時代の侍のように、前髪を少しそる行為で、これをすることによって、一人前の男子とみなされた。一種の成人式である。こうして、村人から一人前の若者として認められ、若者組に加入することになるわけだが、加入する際に親が付添い、酒を一升持参して皆に振舞い、若者組へ加入する。組織面から若者組をみると、種々の形態があるが、若連中・若いもん組は、それぞれ指導者として、若者大将・若いもん大将を投票で選んだ。若長ともいった。その組は、選ばれた若長を中心に、集って話し合ったりした。集まる場所は、若いもん宿・若い衆宿と呼ばれる若者宿があり、これは、お堂を利用する場合、またヤマメ(男の独り者)の家を借りる場合もあった。若者宿では、時には寝泊りすることもあった。部落における若者組の役割として、秋祭りの輿守り、奉納宮相撲・獅子舞い・盆踊り・村芝居など、あらゆる行事の運営にあたって、中心的な役割を果たしていた。また急病人の搬送・道普請・消防・夜警など、部落の日常生活を維持していく上でもなくてはならない存在だった。若連中は、明治末期に青年会と改称され、従来の部落単位のものは支部となり、町村単位の青年会に統合され、いわゆる戦前の青年団となった。
 娘組とか娘連中というような集団はなかったようであるが、裁縫とか、三味線など習いものには行っていたようである。

 夜這い 

 昭和の初期まで、当地方では、若い衆の間で夜這いの風習があった。夜這いは、男子が女子のもとへ夜忍んで行くことである。現在のように男女の自由な交際、また組織だって交際する機会のなかった時代、唯一つの男女の出逢いとして、半ば公然と行われていた。若い衆は、二、三人が連れ立って提灯をぶらさげて、二里も三里もの遠方まで、山を越えて行ったという。当時は、娘をもつ親も黙認するのが普通であった。どこまでも結婚を前提としたものではないが、これが結婚に発展する場合も多かったという。貞操観念が強く、風紀が厳しかった時代であり、現在見られるような、男女間のデートほどの自由はなかったと思われる。しかし、いつの時代も男と女、娘の子を親の子供として戸籍をつけるのも珍らしいことではなかったという。

 隠居組 

 部落には、隠居組という年令集団がある部落が多く見られた。隠居となった老人たちが自らの手で創設し、寄り集って話しをしたり、酒を飲んだりした。また奉仕作業として、春・夏に道の草刈をしたりした。