データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

柳谷村誌

五 家の中の設備

 燈 火 

 燈火は、古くはあかし(照明)といい、ユルリの火が屋内の燈火であると同時に、コエマツの根の脂の多い部分を割って、石や鉄製の燈台をユルリの片隅に置き、その上で燃してあかしとした時代、また江戸時代中期から、ナタネ油を使って油皿に灯芯をさしともした。そのころ紙やローソクの普及によって、アンドンやチョウチンが生れ、江戸時代末期になっては、石油を燃料としたトクヨ・カンテラ・ガンドオ・そして明治五年ころから、国産のランプが販売されるようになって、従前の燈火よりはるかに明るく、夜間の照明用具は一変した。
 石油ランプは、小さい豆ランプ・普通のつり下げるランプがあり、シンの大きさで、三分・五分・八分と分れていて、ふだんは、三分や五分を使い、特別の時に大きい八分のランプをともした。毎晩ともす前には、ランプのホヤのフスボリを磨かなければならず、子供の仕事の一つであった。なにかごとのある時、座敷には八分のランプを二こも三こもぶらさげた。それを頭でかずかないよう長い紙きれをぶらさげていた。

 風 呂 

 昔の風呂は、ごえもん風呂が多く、たきもんは薪だった。農家では風呂を沸す回数が少なく、たらいで、行水をし、これを、「湯を使う」といっていた。昭和の初めころまでは、風呂のない農家が多く、隣近所のある家でもらい風呂をするのだった。風呂はつくりたくてもその余裕がない時代だった。
 風呂はたいてい便所のそばにあって。風呂の廃水は便所の大きなたまりへ流しこんでいた。たまりの下肥は、常に作物の肥料として使用されていたものである。
 戦後になっては、山村でも文化風呂が普及し、燃料も重油や灯油、プロパンガスを使用するもの、また電気温水器・太陽熱利用の温水器まで普及している。

 暖冷房 

 暖房設備は、昔はユルリばかりだった。それから掘ごたつに変わり、ストーブが現われた。ストーブは、薪ストーブ・石炭ストーブだった。昭和四〇年前後から、石油ストーブが現われ、急激に各家庭に普及した。現在では、暖房器共も次々とあらゆる新製品が出回っている。冷房設備は、山間部では不要だという考え方もいつの間にか変って、うちわから、扇風機、そして一般家庭でもエアコンが普及するようになってきた。