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柳谷村誌

三 家材料

 住宅は木造で発達してきた。骨組は、柱と梁で組み固め、壁は板から後には竹を骨とする土壁に発達した。柱は主として、クリ・ツガ・マツ、後にはスギ・ヒノキが使われるようになった。家には、クリなどで大きい大黒柱を必ず入れた。またマツの大木で梁を入れ、風雪に耐えるがんじょうなものとし、これをウシ(梁)と呼んだ。家普請は、隣近所や親類によるコウロクで、材木取りから始まるのであるが、運搬の道具もなく、人力のみに頼ったこの時代、遠方山から、ひっぱり出して来るウシ(梁)は、家に到着するまでには相当たくさんの酒を飲んだという。柱は一本一本ハツリ(斧)ではつり、製材のない時代、板は一枚一枚木挽によって挽かれていた。このころでは、なかなか造作までも出来上らない家が多かったようである。昭和一〇年代になって、発動機による移動製材が現われて、普請をする場合は、建築材一切を集めて製材するようになった。このころから、セメントも使われ、また壁も白壁が見られるようになった。太平洋戦争の前後は、釘をはじめとした建築材が不足していたが、戦後次第に物資が豊富になって、建築様式も急速に変り発達した。
 昭和四〇年代になって、外材が多く使われるようになり、新建材がどんどん生産されて、木材の多い我が村あたりまで入って来るようになった。我が村における建築様式も、鉄筋コンクリート造り・鉄骨造りなども多くなって、建築用材は木材だと思っていた時代はいつの間にか過ぎようとしている。