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柳谷村誌

二 炊事施設

 台 所 

 昔の農家は、家の中に入るとヌワと呼ぶ土間があり、その奥にシヅと呼ぶ台所があった。このシヅには大小のクド(カマド)があり、その近くに流しを設けて横に水ガメをすえ付け、食器や炊事用具を置く棚や戸棚を取付けた。水ガメの水は、家の外のフネガワと呼ぶ木や竹の掛樋から受けた水ダメの桶から汲んで入れた。昭和に入って、水タンクがセメントで作られるようになった。煮たきは、特別の場合を除き主として、茶の間のユルリ(イロリ)が使われユルリも台所の一部をなした。ユルリにはジザイがかかっていた。ジザイは、天井からなわをつり下げ、竹筒に梅の木で作ったかぎを通し、それになべ・はがま・どびんなどをかけて火をたき煮物などをした。大正年間になって、このジザイカギも鉄製のものができた。

 タキモン(薪) 

 燃料はタキモン(薪)と呼んだ。昔から大雪の降る我が村では、暖房用と併せてタキモンを多量に必要とした。年間三坪も四坪もたくのが普通だった。農家ではタキモンを主食と同じように大切に扱いキハンマイ(木飯米)とも呼んだ。タキモン作りは、農家にとっては大仕事の一つであった。秋の初めころから山を切り、木こりをして、遠い山からの運搬・家族中が冬に向って毎日木かるい(背負う)や木馬に積んでひっぱった。どこの農家の軒下にも木グロが高く積まれた。戦後昭和三〇年代になって、石油コンロの出現、ユルリを堀ゴタツ化することになって、茶の間のほこりも煙もなくなった。木炭が使用されるようになってタキモンの必要がなくなった。
 昭和四〇年代になって、プロパンガスが売り出され、その便利さは食生活における炊事を容易ならしめた。