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柳谷村誌

一 食物

 食 制 

 食べることは、生命を維持するため、人々にとって最も基本的であって重要なことである。食事の回数は現在では朝昼晩の三食に固定されているが、ずっと昔は二食で朝夕だけだった。それに昼の間食が加って三回となった。しかし、労働のはげしい我が村あたりでは、農家は四食制だった。朝と晩、昼の食事を、オチャと呼び、午前一〇時ころに、ヒダケチャ、午後二時ころにニバンチャ、食事をすることを、オチャヲノムといった。ヒダケチャのことを、イキツキチャと呼んだりして、朝山へ行きつくとすぐオチャヲノンデ仕事を始めた。また夜なべ仕事をする時は夜食をした。

 主 食 

 一般の食生活が米食中心になったのは、そう遠い昔のことでなく、太平洋戦争の混乱がようやく治まり、経済成長をみせてきたころ、我が村あたりでは、昭和三〇年代も後半からである。米は貴重品であって、特に田の少ない我が村、昔から米の飯を食べるのは、正月・盆・祭など、なにかごとのあるときだけで、年に数えるほどしかなかった。米に対する人々の執念、病人に米がゆを食わすこともできないままに、死期が近づいた病人の耳元に、ふり米といって、竹の筒に入れた一握りの米を打ち振って、米の音だけでも聞かせてやる、こんなあわれな時代もあったという。我が村の主食はほとんどトウキビでこれを常食とした。昔から村人は、広い焼畑を利用してトウキビを作った。トウキビは、天正七(一五七九)年ころから我が国で栽培されるようになったといわれており、実に四〇〇年余りにもなる。この間我が村人の命の糧となった。稔りの秋、トウキビの取入れは、くる日もくる日も夜なべでトウキビはぎが続いた。これをせがって(積み重ねて束にする)イナキ(稲架)に架けた。どこの農家にも黄金色のトウキビ稲架が長く並んで見事であった。多い農家では二〇〇せがい(約二〇石)くらい架けたという。しかしながら、トウキビほど、背が高いため風に弱い作物は無く、台風シーズンが花ざかり、一夜のあらしで収穫皆無となり、ただぼう然となることは珍らしいことではなかった。それでも農家は自然との取引きで、くり返しくり返し、トウキビ作りに取りくんできた。常食としてこれに代る作物がなかったのである。
 トウキビをイナキから下して、カラサヲでたたき粒にする。これを細かく石臼でひき割る。ひき割ったものを、フルイにかけて選別する。メカワが除かれ、粉が除かれて飯にたく部分が残る。これをヒキワリといい、粉をハナゴといった。平常はほとんどがヒキワリの素飯で、米を少しなべのすみに入れた部分を弁当などに入れたりもした。
 ハナゴは、ぞうすいにしたり、ハナゴ団子をつくった。秋の初めのヤキトウキビは味もまた格別でよく食べた。
 トウキビの小粒の種類をよく乾燥して大釜で煎ると、よくはじいて真白い花のようになる。これをイリハナと呼んだ。イリハナを石臼でひいてこの粉をコンゴ(ハッタイ粉)といい、コンコは飯を補うために食べ、農家ではこれを欠かせないものとしてよくひいた。冬の間に、粉ひき唄などを唄いながら一年中の分をひいて、しめらぬよう、ハンド(ツボ)に詰めて保存し、年中食べた。コンコメンツ(竹をまげて作った入物)に入れてコバシ(竹で作ったサジ)ではねて口へ入れる。コンコを食べることをはねるといった。コンコは、予供のオヤツがわりにもなった。
 遊びつかれてクジヲクル子供、母親は仕事の手を休めることなく、子守りをしている三つ違いくらいの子へ、「コンコでも食わせておけや」といった。コンコを上手にはねることのできない子供、半分くらいはコンコメンツからふりまいてしまう。なみだ、はな、どろまみれの顔、コンコだらけの着物、焼畑の一角に見る、コンコメンツを抱えた無心な子供の姿、このような時代はながかった。「わしらはコンコを食うて太ったのよ」、と昔からよく聞かされたことばである。
 麦飯は、昔は丸麦だったのでたけにくかったが、大正の初めころからシヤゲ麦が出回るようになり、また農家も裸麦を作ってシヤゲ麦にして食べるようになった。
 粟や稗もよく食べた。特に稗は西谷方面でよく作られ、トウキビとともに主食にしていた時代もあった。これらを精白するのには、各農家に足踏みのヤグラがかまえられていた。谷の水を利用してつくソオズもできた。
 大正の初めころから水車ができて楽になった。水車は小組単位くらいに作られるようになっていた。水車廻りにはそれぞれ順番に名前を書いた番帳を使用していた。
 餅のことを昔からバッポと呼んでいた。正月・節句・祭・誕生・普請・仏事など農家では良きにつけ悪しきにつけよく餅をついた。誕生祝いの力餅とか歯固めの餅、餅は人の生命に力を与える食物とされていたのである。
 旧正月、農家ではイイをして餅つきをした。米の餅はほんの少し、あん餅も少なく、すや餅がほとんどである。
 ヒキワリ・粟・コキビ・タカキビ・ハナゴ餅などである。多くつく農家では二石五斗くらいついたという。これを寒の水につけて、夏ごろまで毎日食べた。
 激しい労働をするためには、味よりも何よりも、こうした腹ごしらえが必要だった。
 夏になると主として、小麦粉を使って、ミョウガの葉に包んだヨモギ餅、大きな平釜での煎り餅など、その味はおふくろの味として、いまなお、ふるさと祭りなどで人気を呼んでいる。
 そばをよく作り、そば粉にして自家製でそばを打ち、また熱湯をかけてそばねりなどもした。

 副食物 

 副食物はオサイと呼び、味噌・ショウユノミ・ナッパ・大根の漬物・梅干し・味噌汁・野菜の煮物などで、魚はふだんいりこを使うのはぜいたくなほう、正月・盆・祭りなどの塩サバ・イワシ・イタズケ・チクワなどが最高のご馳走で、牛肉やブエンといわれた鮮魚など、ほとんど食べることはなかった。野菜は、ダイコン・ニンジン・イモ・タカナ・ネギ・ゴボウ・ウリ・カボチャ・ナスビなどで、ワラビ・ゼンマイ・フキなど山菜類をよく取って保存した。大根の切干しや干し葉をたくさん作って保存し、冬期の野菜がわりとした。ハナゴ雑炊にはたいていヒバ(干葉)が入っていた。バレイショは、コウボウイモと呼び主食のように常食した。豆腐やコンニャクは自家製で最上のごちそうであり、正月・盆・祭り・またなんぞごとのあるときは必ずつくった。大きくてニガリの効いた豆腐、なわでくくって持ってもよいくらいだなどといわれた。この豆腐を焼いて塩漬や、梅酢にたくさん潰けて保存食とした。
 食物も、昭和二〇年、太平洋戦争前後は食糧事情が悪くなって、我が村でも雑穀、いも類に至るまで強制供出となり、食糧も塩もしょうゆも配給制となった。トウキビ飯さえ充分に食えず、さつまいもの切干しを入れたカンコロ飯、食うや食わずの生活が続いた。昭和三〇年代になって、高度の経済成長に伴い、米も麦も主要食糧が豊富になり、肉・魚・果物・あらゆる食料品が嗜好品にいたるまで、村内の店頭はもちろん、交通の便がよくなるにつれて、移動スーパー的な行商が、どんどん各家庭の庭先まで入ってくるようになって、田舎の村でも何不自由なく求められるようになった。