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柳谷村誌

四 風呂敷・袋物・雨具

 風呂敷 

 風呂敷は、昔から使われた日本独得のものである。初めは平包と称されていたが寛保年間(一七四一~四四)のころから風呂敷と呼ばれるようになったという。ふとん風呂敷のような大風呂敷からはじまって、大小さまざま、柄もいろいろでその用途は広い。働く時の被りものに用いていたところもあるようである。
 特に明治時代から、大正、昭和の初期へかけては、学校に行く時の教科書も弁当もすべて風呂敷包みであった。教科書の風呂敷包を右肩から背負い、裁縫箱の包みを左肩から背負った女の子、腰に弁当の包みを巻きつけた男の子、この時代における小学生の通学風景であった。利用範囲の広い風呂敷だけに、慶弔をはじめとする記念品・贈りものに近年までほとんど風呂敷が用いられていた。

 袋 物 

 信玄袋が、明治の中期から大流行した。信玄袋は、底板を付けた手提袋で、底板は袋の表と同一の生地でおおい、口まわりに、くくりひもをつけて結んだものである。現在の旅行用バック類の役目を果たしたものである。昭和の初めから、サラリーマンの間で流行した手提鞄は、戦後になって全国的に大流行し、昭和三〇年ころからは、学生・生徒の通学用鞄ともなった。また、小学生のランドセル・登山用のナップサックも大流行した。これらの袋物や鞄類はめまぐるしく変化している。

 雨 具 

 昔から仕事用の雨具は、簑・菅笠であった。自生する菅を夏の間に取って乾燥し、これを材料として手編みした。簑には大簑と背簑があり、背簑は、女子が夏の日除けとして使用した。我が村では特に猪伏で作られた簑が材料の菅もよく、また編み方が、京都の奥地方のものと共通したもので、丈夫さと着ごこちの良さで人気がありおそくまで作られていた。
 昭和三〇年ころから、ゴム・ナイロン・ビニール製品などの雨具が出回り、昔からの簑笠は全く姿を消し、今では民芸品として残されるのみとなった。
 傘が一般に用いられるようになったのは、江戸時代に入ってからといわれている。番傘や蛇の目傘は、明治時代になってから多く出回った。昭和の初めにかけて、文字の入った番傘が流行した。戦後昭和三〇年代になって洋傘が流行し、男子用、女子用、色とりどりのカラフルなものが現われて、番傘や蛇の目傘は、一般用にはほとんど用いられなくなった。大きな文字の入った番傘が、ずらりと掛けられていたのが、昔の学校の貸出し用であった。