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柳谷村誌

八 社会体育

 青年団と体育活動 

 昭和二一年、上浮穴郡連合青年団が結成され、第一回の体育大会が開催されたが、大会運営には苦労が多く、大会終了後、優勝旗の授与を終ってから、出場資格の問題で優勝が変更されるというエピソードも残っている。七月ころから小地域における練習が毎日のように続けられ、町村大会が開催される前には一週間にも及ぶ合宿が組まれるなど、地域におけるスポーツ活動は大きな盛り上りをみせるとともに、さらに郡大会には、郡内一一町村から陸上・相撲・バレーボールの選手・応援団が、トラ″クの荷台に乗って続々と集結した。参観者を加えると、一〇〇〇人をはるかに越える郡内では最大の行事となり、地域の名誉をかけて、白熱した試合が展開された。この青年の体育大会こそが、郡や村における社会体育の草分けではなかったであろうか。村役場の日誌によると昭和二五年九月二三日、二四日と弘形中学枚において郡内青年体育大会が開催されたことが記されている。
 敗戦によって中断されていた上浮穴の柔剣道も、二四年ごろから愛好者によって復活され、二五年に初めて青年団の手によって武道大会が開催された。前記日誌によると、昭和二六年三月四日落出公会堂において、上浮穴郡連合青年団武道大会が行われている。この大会の聞催には、久万警察署が大きな役割を果たすとともに、その後の上浮穴の柔剣道は、上浮穴郡防犯協会の結成とともに、協会の手によって大会が進められるようになったのである。
 昭和二五年八月、柳谷第一小学校で、第一回柳谷村青年団体育大会が開催されたが、村における戦後の組織的な社会体育活動としてはこれが最初のものであった。旧中津村では、すでに昭和二一年ごろから、郡大会の出場権をかけた予選大会が開催されていたようである。第一回大会の種目は、陸上種目一五種目、バレーボール・相撲などが中心で、西谷対柳井川の対抗戦として実施された。地域のスポーツとしては、柔道・剣道が盛んで、相撲は宮相撲が中心で各地で行われていた。
 昭和二五年郡連合青年団の武道大会では、柔道が優勝し剣道が準優勝、さらに翌年は相撲、柔道が優勝するなど日頃の活動が活発に行われていたことがうかがわれる。
 昭和二二年ごろから二八年ごろまで、自主的な組織による軟式野球が盛んとなったが、二七年ごろから下火になっている。二四年ごろ布製のグローブからようやく皮製が出まわるようになった時期、役場では、ポロリーズチームを結成し、柳井川中学校に手製のバックネットを造ったりして、大いに気を吐いたが故障者が続出して間もなく中断している。当時のチームは、四国電力や教員・落出の一部が中心で、このころの社会体育には四国電力、教員などが強い影響力を持っていたのである。

 スポーツ大衆化の動き 

 昭和二六年文部省は社会体育指導要項を制定し、これの伝達を兼ねたレクリエーション指導者講習会が、青年団・婦人会・公民館・教員・一般社会人を対象に、上浮穴教育事務所が主催して久万町で開催された。スポーツをレクリエーション化し、大衆化しようとする考えが、このころからすでにあり、また、社会体育という用語も、このころから使われるようになったものと思われる。
 この年一〇月には、第六回国民体育大会が広島で開催され、愛知県からの国体旗は国道三三号線を、高知から松山にリレーされたのであったが、村の青年団員の手によって、県境から弘形村境までをリレーして、弘形村に引継いだのであった。
 昭和二七年二月一〇日に青年団の柔道・卓球大会が落出公会堂で、二八年三月二一日に西谷下三組公民館で、柔道大会がそれぞれ開催されている。
 昭和三〇年ごろから、郡連では、青年団による試合至上主義のスポーツの取り組みに、内部からの反省が起り、昭和三一年から、名称を「スポーツ文化祭」と改めて第一回大会が開催されたが、のちに「スポーツ祭」と呼称が変っていった。

 村主催のスポーツのはじまり 

 昭和三二年、社会教育主事が配置され、社会体育が教育行政の上に位置づけられて、ようやく組織的な活動が展開されるようになり、昭和三三年一一月二・三日、第一回柳谷村ソフトボール大会が村の主催で開催され、柳井川小学校グランドを会場に一二チーム、約二〇〇名の選手役員が集合し、二日間にわたって熱戦が展開された。優勝旗を久保内昭郎(木材業)が寄贈し、職場や地域単位にチームが編成されて行われ、この時は西谷ヒッターズが優勝をしている。参加者の熱望により、翌年から春秋二回の開催へと発展し、チーム数も多く日程が三日間と充実されたのであった。昭和三〇年代の社会体育はこのソフトボール大会が唯一のもので、盛大に催されてきたのである。
 昭和三二年に「地方スポーツの振興について」の文部省次官通達によって、地方におけるスポーツ指導者として、体育指導委員の設置が要請されているが、村ではまだ対応ができず、昭和三五年四月に至ってようやく四名の体育指導委員が委嘱されて、社会体育の振興がはかられたが、体育指導委員の活動は低調で、ソフトボール大会の企画・運営が活動の中心であった。同年九月、青年を中心とした野外活動指導者研修会が、一泊二日の日程で五段高原で開催され、新しい分野の開拓が試みられているのである。
 昭和三六年六月「スポーツ振興法」が制定され、体育指導委員は必置制となり、したがってその身分も確立され、ようやく体育指導委員の活動も活発となった。昭和三八年に委員は六名に増員され、さらに民間の地域活動者が委嘱されたこともあって、本格的な活動が展開されることになった。
 昭和三九年九月一四日には、オリソピック東京大会の聖火リレー隊歓迎行事が、国道三三号沿線の各町村をあげて実施され、村では県境での引渡式に柳谷中学校のブラスバンドが参加して、無事に高知県側に引継いだ。
 このころから人口の減少が目立ちはじめ、スポーツに参加するものは減少固定化の傾向をみせ、スポーツの生活化、大衆化をめざして督励がされたが、まだ、一般住民のスポーツへの関心はうすい時代であった。

 体育の日と村民体育祭 

 昭和四一年国民の祝日に関する法律が改正され、一〇月一〇日の「体育の日」が制定されると、今までの村民祭を「村民体育祭」に改めて、この日の記念行事として村をあげて盛大に開催された。四八年の第一〇回村民体育祭では〝豊作祝う七福神〟、〝すばらしい世界旅行〟、〝戦艦みかさ〟などの仮装行列も出て、大変なにぎわいであった。この行事がはじまってしばらくの間は、行政主原型ですすめられてきたが、回を重ねるにつれ、公民館体育部の活発化とあいまって、住民主体の体育祭として、催されるようになったことは、大変よろこばしいことであり、今や伝統行事に確立されて今年(五八年)第二〇回記念村民体育祭が、はなやかに開催されようとしているのである。

 スポーツの郡の動き 

 昭和四二年には、郡連合青年団主催による第一回駅伝大会が開催され、国道三三号線で熱戦が展開されたが、交通事情が悪化したため、その後コースも変更され、小田町、久万町の交互に現在も継統されている。
 昭和四三年は、上浮穴の社会教育にとって画期的な年であった。五月一日、上浮穴部体育指導委員協議会が結成され、初代会長に山之内正昭(久万町)が就任した。そして、事務局、規約が制定され、郡の組織は名実ともに確立された。八月には、郡婦人バレーボール大会が開催され、さらに一〇月に第一回愛媛県民体育祭が、松山市で開催された。日野泰上浮穴郡町村会長を団長とする一二〇名の選手が参加し、球技や陸上競技に好成績を残した。特にこの大会はスポーツの大衆化をねらいとしたため、大きな盛り上りをみせ、翌四四年の第一回上浮穴郡社会人総合体育大会開催へと進展した。更に、一一月一〇日には郡体育指導委員協議会と久万町教委主催による、スポーツ教室が久万町で開催され、ソフトボールのルールと実技、また第三種公認審判認定講習が行われ、体育指導委員の資質の向上が図られた。
 四四年第一回上浮穴郡社会人総合体育大会は、郡民にスポーツを普及し、スポーツ精神の高揚と体力づくりを進め、郡民生活を明るくするという趣旨で、(県民体育祭の予選も兼ねて)上浮穴高等学校グランドで開催された。種目は、ソフトボール・卓球・軟式庭球・バドミントンの四種目であったが、軟式庭球・バドミントンは参加チームが少なく、ソフトボール・卓球の二種目であった。また郡連合婦人会が主催で四三年から開催された婦人バレーボール大会も、この総合体育大会に位置づけされ、八月一〇日に久万小学校で開催された。その後は会場も各町村持廻りに、回を重ねるにつれて盛会となり現在に引継がれているのである。

 施設整備によるスポーツ活動の夜間化 

 郡のこのような動きの中で、村では四二年七月三〇日に柳谷中学校で第一回柳谷村軟式野球大会が開催され、現在までつづけられている。四四年一〇月柳谷中学校体育館が完成し、さらに四六年六月、ほかの町村に先がけて柳谷中学校に本恪的な夜間照明施設が完成し、それまでのスポーツは昼間という常識を破って村民を驚かせている。続いて中津小にも六基灯の簡易照明施設が、八月一〇日には西谷小にも同様施設が完成した。行政によるスポーツの大衆化、生活化の指導と施設の無料開放によって、このころから夜間のスポーツ活動が盛んになってきた。四三年からの郡婦人バレーボール大会をきっかけに、今まで手がけられていなかったバレーボールも、体育指導委員の指導によってなじむようになって、四六年九月三〇日、第一回柳谷村バレーボール大会が、柳谷中学校で開催され、郡大会参加の予選も兼ねて毎年行われるようになった。
 四六年一一月、柳谷村議会議員であり、中津公民館主事として三八年から社会体育に尽くしてこられた山中貞一が急逝され、村議会葬が挙行されたが、その香典返しとして、遺族から男女の優勝杯が贈られた。そこで、四八年一一月二五日柳谷中学校体育館で、第一回柳谷村秋季バレーボール大会が開催され、遺族から副賞も添えられ、山中杯争奪戦として毎年つづけられるようになった。四七年一月七日には、新装間もない中央公民館で、第一回柳谷村卓球大会が開催され、ソフトボールやバレーボールとは違った顔ぶれが参加をしており、村の社会体育にも底辺の広がりが見られるようになった。
 四六年八月に柳谷中学校水泳プールが完成して、高校生の模範演技などではなやかにプール開きが行われた。その後年次計画で、四七年に中津小プール、四八年に西谷小プール、四九年に柳井川小プールがそれぞれ完成した。柳谷中、中津小のプールが完成した時点で、一般成人も含めた第一回柳谷村水泳大会が開催されたが、成人側の参加が少ないこともあって、次回からは児童、生徒のみによって実施されるようになり、教師の熱心な指導もあって、泳法が上達し、年々記録を更新しながら今年第一一回大会が開催されたのであった。
 四八年二月七日、柳谷サッカークラブが結成され、翌年中中予地区サッカーリーグに参加したが、週一回の出場で支障も多く、一年で辞退して、その後は上浮穴郡サッカーリーグで勝敗を争っており、毎月定期的に練習に余念がない熱心ぶりである。四四年ごろから再び郡軟式野球大会も復活して、自主的に運営されるようになった。
 昭和四八年度には、県費による住民レクリエーション施設として、卓球施設五セット、バレーボール施設二セットを購入して各地域へ設置したが、その後も各集落の要望によってこの制度を活用し、施設の普及をはかってきたので、各種スポーツ用具が村の隅々までいきわたり、スポーツの普及と末端浸透に大きな役割を果たすことになった。
 四九年度郡社会人のバレーボール大会で優勝した女子チームは、一〇月二九日の第七回県民体育祭に初参加しており、その後男子ソフトボールとともに何回か出場したが、いずれも初戦で敗退している。
 五一年七月九日、柳井川小学校に本格的夜間照明施設が完成して、点灯式が行われ運動場の夜間開放がさらに拡充されることになった。
 五三年度からソフトボール・バレーボールともに、郡大会の出場をめざす選手強化をねらった選手権大会を新たに増やして開催した。その後四回つづいたが、あまりにも出る回数が多いとの声で、行事精選によって五七年度からは中止されることになった。
 この年八月二七日、第一〇回上浮穴郡社会人バレーボール大会が、はじめて柳谷中学校で開催されたが、途中にわか雨に降られたが止むとしばらくで再開でき、水はけのよさを感嘆する一幕もあった。

 地域公民館・団体等のスポーツ活動 

 公民館体育部の活動も活発になり、柳井川公民館では、四八年から柳井川地区ソフトボール大会を定期的に開催(議員杯)されるようになり、さらに五四年から、柳井川地区女子バレーボール大会(議員杯)も始められた。
 西谷公民館では、五四年から西谷地区ソフトボール大会(議員杯)が、五七年から西谷地区バレーボール大会(議員杯)が開催されている。
 また中津公民館では、中津地区卓球大会(優勝杯)が行われており、五八年から中津地区ソフトボール大会(議員杯)が始められようとしている。
 青年団では、四七年から元旦マラソンを手がけて、村外同好者も参加し盛会に実施されていたが、回数を重ねるにつれて参加者が減少し、五七年からは日を一月九日に改め、「家族健康マラソン」として継続されている。また職域バレーボール大会を四八年一一月から開催して、現在も続けられている。
 婦人会では、五五年一一月八日、軽スポーツの第一回柳谷村婦人ミニバレーボール大会を開催した。その後年二回の大会が開催されるようになり、これが刺激となって、各地域にミニバレーボールが普及しつつある。
 壮年会では、五七年七月二八日、二九日の二日間ナイターで、初心者歓迎の第一回柳谷村壮年ソフトボール大会を開催した。面白かったので是非来年もの声で五八年から春秋二回の実施になった。
 老人クラブでは、幸福学習会でルールや実技の学習をくり返しても、なかなか燃えなかったが、五七年九月一日、柳井川小学校で、第一回柳谷村クロッケー大会が開催され、つづいて九月二六日に小田町で第一回郡クロッケー大会に参加して、他町村との実力の差を知り、その後地域で練習を積み重ねてきたので、五八年の第二回村大会ではゲームの上達が目立ってきた。
 各地域、各対象者ともに社会体育の進展はめざましいものが見られるようになってきた。それに拍車をかけるように村としては、五五年三月二九日に地域待望の柳井川小学校体育館を完成させ、五八年五月二一日姫鶴運動場のグランド開き、つづいて八月二五日に休場山村広場も完成して、関係者によるグランド開きも盛会に行われた。これらの施設でも特に体育館は、休日がないほどに村民が喜んで使用している現状である。
 五八年八月二八日、郡社会人バレーボール大会は、休場山村広場の真新しい設備で、郡民にお目見えする予定であったが、雨にたたられ、急遽久万町に会場が変更された。折角準備された会場を使って翌日、村内のチームが自主的に集ってバレーボール大会をにぎやかに催している。
 このように、社会体育施設は他村がうらやむほどの充実が見られるようになり、これらの施設をフルに活用して、村民総ぐるみのスポーツ参加によって、健康と体力づくりの躍進が期待されているのである。

体育指導委員

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