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柳谷村誌

七 高齢者教育

 人口過疎と高齢者への変貌 

 昭和三五年九月、自民党は高度成長・国民所得倍増政策を発表し、一二月二七日の閣議で、「国民所得倍増計画』を経済基本計画とすることを決定している。
 この経済成長政策によって、村に変貌の様子が見られるようになった。その最初に目立ちはじめたのが、若者が少なくなることであった。二、三男対策をどうするのか、というようなことがどの村でも真剣に検討されていたのであるが、気がついてみると、若者の都会流出がすでにはじまっていたのである。今まで活発であった青年団ですら、その活動が危ぶまれるようになってきたのである。だんだん出稼ぎもさかんになるようになり、「出稼ぎ調査」で実態をとらえなければならなくなってきた。
 そのうち、若者の転出や出稼ぎだけではすまなくなり、一家を挙げての挙家離村が目立って多くなってきた。そのために、集落が壊滅したところ、世帯数が半分か、三分の一に減少するような極端な現象が見られるようになった。一度都会に出た老人も都会の水になじめず、再度ふるさとへUターンする者、息子ら夫婦が転出しても、居残って山や畑を守る老人等様々な現象が起り、人口の過疎化の中で、人口構成に老人の占める率が高くなる、いわゆる高齢化の社会現象が年々目立つようになるのである。
 生活様式も都市化するようになって、どうしても月々まとまったお金がなければ、生活が成立たない仕組みにも変ってきた。したがって、農林業従事者も他産業へ出稼ぎあるいは日稼ぎに出る兼業化が増え、それだけでは間に合わず、主婦による日雇いなど、共稼ぎ世帯がほとんどという様相に変貌していくのであった。
 そうなると、老人といえども家の山林や田畑を守って、一丁前に働かなければならず、いわゆるじいちゃん、ばあちゃん農業と言われる現象が顕著になってきた。
 昭和二三年から、九月一五日を敬老の日と定め、広く国民が老人の福祉について関心を深めることになり、わが村でも年々、この日敬老会を催してお年寄を慰め励ますつどいが持たれているのであるが、その対象者が年々増加するのと併せて、村としても年一回の敬老会だけで、老人福祉をすませるような時勢ではなくなってきたのである。

 老友会の結成 

 戦後の家族制度は、だんだん核家族化し、老後を子どもや孫とともに過ごす大家族主義が姿を消してきた。老齢による身体の欠陥や生活手段の喪失などは、孤独を生み、経済的、精神的な不安を抱かせるようになった。若い働き手が都会へ流出して、老齢化を早めることになったこうした中で、年寄りが集まり、お互いの教養の向上をはかり、励まし助け合うことによって、自らの生活を憲義あるものにし、自らの力をおしみなく社会に役立たせようとつくられたのが、老人クラブである。わが村では、昭和三八年七月一二日、柳谷老友会西谷支部が、翌一三日に柳井川、中津支部がそれぞれに結成されている。
 昭和三八年七月一一日、老人福祉法が制定され、行政の面からも本格的に老人問題にとりくみ、老人の教養の向上をはかり、励まし助け合って、老後の生活を健康で豊かなものにするために、生活や社会奉仕に役立たせようとする努力が続けられてくるのである。

 郡老人クラブ結成と学習活動 

 昭和三七年には、上浮穴郡老人クラブ連合会が発足しており、ここの主催で高齢者教育がスタートしている。昭和三八年一〇月一六日から一八日まで、久万町菅生山大宝寺にて、郡内在住老人六五名の参加により、新しい世代と調和をはかり、社会の広い分野の教養を高めるために、第一回目の老人大学を開講して、「老人のものの考え方について」大宝寺副住職大西利康、「百歳への招待について」久万町立病院長河野通夫、「戦国戦乱と上浮穴について」久万中学校教頭大野憲、「社会常識としての新聞のあれこれ」愛媛新聞社上浮穴支局長高村将太などの講師によって学習している。
 昭和三九年五月一日、老人福祉法による健康診査実施要領が制定され、健康診査、療養費の給付などが実施されるようになった。
 昭和三九年一一月五日から七日まで、久万町菅生山太宝寺にて、町村老人クラブ指導者六〇名の参加によって、老人クラブ指導者育成と合わせ福祉事業推進のために、第二回目の老人大学を開講。「老人と若い世代について」中央児童相談所長桜井武雄、「世相に学ぶ」愛媛新聞社事業部田中富一、「歴史からみた養生訓について」県事務所久万出張所長稲垣勝、「上浮穴の先人について」小田高等学校松本重太郎らの講師によって学習している。
 昭和四〇年一一月一六日から一七日まで久万町菅生山大宝寺にて、進歩する社会に対応できる教養を身につけ社交と協調性の尊さを知る場として、第三回老人大学に町村老人クラブ指導者六〇名が参加し、「拝む生活について」大宝寺副住職大西利康、「生きる楽しさについて」日野学園長足立邦芳、「南北アメリカの旅」久万町長日野泰、「老人福祉について」県民生活部次長安川荒太らの講師によって学習している。
 昭和四一年以後は参加者もI〇〇名から一二〇名に増加して毎年継続されており、郡の指導者養成には少なからず貢献するところとなっている。

 村の老人学習のはじまり 

 わが村の高齢者教育は、施設の関係で開設が遅れてきたが、四五年に中央公民館が新設されて、はじめて老人大学が開講された。年間三回(一二時間)を開講するものであったが、その二回目が一〇月三一日中央公民館で開催され「話し合える家庭の人間関係」について、中央児童相談所関享道が、ユーモアたっぷりの話しに抱腹絶倒しながらも、しみじみ考えさせる内容の学習と、「万国博のすべて」の映画観賞や自分たちの出しもののレクリェーションを楽しんでいる。その後毎年、年に三回から五回程度の老人大学が、運営委員会で検討されたプログラムの提供によって開講されている。

 ホームヘルパー設置と対象者の様子 

 昭和四六年度から、ホームヘルパー制度ができ、村でも雇い入れたがいずれも長つづきせず、三人目に舘野ナツ子が一二月二日就任している。国、県の指示では、ヘルパー一人につき、対象者六名を週に一人宛二回訪問するようにとのことであったが、当時の実態は、独居老人が一五名程度、寝たきり老人が四名であった。そこで、生活保護世帯を重点に、家庭の事情に合わせて訪問をしている。はじめのころは、公用車の空いた時には使用したが、ほとんど自家用車を使用しているのを見かねて、昭和四八年六月、村社会福祉協議会が、トヨタカローラ一二〇〇CCを専用自動車として購入した。それから九年その自動車で村内巡回をしたのであったが、五八年六月に二台目の新車が購入されている。
 五八年八月現在の独居老人数は、男一二名、女三九名、計五一名。寝たぎり老人は、男六名、女九名、計一五名。重度身障者が二名おり、一二年間に老人弱者が増加をしている現状である。舘野ヘルパーは、当時をふりかえって次のような述懐を述べている。

 その頃は、今のように道路がいきわたってなかったので、歩いて坂道を登ることもしばしばで時間がかかった。老人自身、もったいないという気持を持つ人の方が多かった。まわりの目を気にして、見てもらうことが恥のような意識が強く、その気持を言葉や行動に示すことに、もどかしい様子も見られた。今では、テレビなどで社会の状況にも通じてきたので、六五歳になればヘルパーは当然来てくれるものと思うように変ってきた。
 一〇年経過した今では、若い人が村外に流出して老齢化の波と老人のみの世帯が多く、連れの一方が亡くなれば独居になり、又寝たきりの人も多くなってきた。また、仕事をしないで寝たきりになるとボケも早くなり、ボケ老人が増える傾向にある。寝たきり老人の世話も、世帯の看護人が一人で弱いとか、年老いているとかの世帯を重点に巡回している。老人の声として、誰とも話すことがないことが淋しい。若い者は仕事仕事と朝早く家を出て、夜遅く帰ってくるので、チラッと姿を見かけるだけで話すことがない。本家のいない老人は、部落のつきあいがいろいろと大変だという。また、今さら若い者の所へは行きたくない。七・八〇年住み旧れたこの村で死にたい。金を出し合ってもいいから、老人住宅で共同して生活のできるような施設がほしい。

 昭和四七年九月二七日、この年第一回目の老人大学で、「老人の生きがいについて」高岸勝繁議会議長が一時間の問題提起をしたあと、第一分科会「老人福祉の現状と問題点」、第二分科会「生きがいのある生活の方向」、第三分科会「老人学習をどのように進めるか」二時間の討議。全体会で分科会のとりまとめの際の結論として、老人の生きがいは「働くこと」であり、月一回「老人の日」を設定して労働の休日としてはとの提案にも賛成が得られず、「としよりの結婚」というか「茶のみ友達」の推進という捉案にも、反応は冷やかであった。

 村の高齢者意識調査 

 昭和四八年一一月、愛媛大学教育学部、教育学研究室がまとめた資料の中で「人口の老齢化傾向の中にあっても、柳谷村における老齢人口の比率の高さは異常である。昭和四五年の国勢調査をみても、愛媛県平均の老齢人口(全人口の中に六五歳以上の人口のしめる割合)の比率は、九・四パーセント、松山市七・〇パーセントであるのに対して、柳谷村では一五・ニパーセントを占めるに至っている。」として、過疎化の中の人口老齢化を指摘している。
 昭和四九年に、久万農業改良普及所、柳谷村中央公民館、柳谷民生委員会、柳谷村老人クラブ連合会が一体となって、柳谷村の老人問題をあきらかにしようと、農村高齢者生活意識調査を実施したが、五〇年に至って久万農業改良普及所でその結果がまとめられた。
 調査の目的は、高齢化社会といわれるように、「増加する一方の老人」の生活の実態と意識を正しくとらえ、老人対策の問題の所在とそれへの対応策を考える資料とするためであった。
 老人をとりまく地域社会、家庭、産業、教育、福祉等が総合的に進められなければ、「豊かな老後」は約束されないはずである。調査は村内六〇歳以上の男女六五〇人を対象としたが、実際に調査ができたのは四五一人であった。調査内容は八項目、二九問で一人一人聞きとり方式で実施した。
 老人の家業の種類は、農業が全体の五六パーセントを占め、林業を加えると六一パーセントとなっている。その老人が、どのような形で家業にかかわりあっているかをみると、約三〇パーセントの人が経営主として、四五パーセントの人が手伝い、後継者にゆずり、仕事を全然しない人は全体の二五パーセントとなっている。今後も続けたいと答えた人は六〇パーセントと多く、働けるうちは働きたいという労働に対しての意欲はおう盛である。
 一か月の労働日数等、細部の集計が示されていないため、労働の実態はつかまれていないが、かなり過酷な実態が予想され、働きすぎる老人のイメージが強い。
 労働と密接な関係をもつ自由な時間のすごし方についてみると、男女とも三五パーセントの人が働くと答えており、二位が好きなものを食べたり飲んだりするの三〇パーセントとなっている。したがって、元気で働き、好きなものをたべたり飲んだりするのが、一般的な老人の願望であるといえよう。
 特に注目されるのは、趣味活動との関連であるが、趣味を持っていると答えた人が男子七六パーセント、女子五四パーセントと多いにもかかわらず、自由な時間に趣味を楽しむと答えた人は、男子一二・九パーセント、女子一二・四パーセントと低く、趣味を持っていても、それを楽しむまでに至っていない。
 老人が地域社会に役立っているという自覚がなければ、生きがいは生れにくい。社会連帯感の中で、老人の生活が充実したものになるのではなかろうか。
 老人の奉仕活動は、中津地区が活発で参加率四一パーセント、柳井川一八・四パーセント、西谷一二・七パーセントとなっており、老人クラブの組織をあげて「憩いの森」整備事業にとり組んだ中津地区の老人が積極的に参加していることを示している。老人クラブ等サークル活動への参加も低調で、二〇パーセントの老人が参加すると答えているにすぎない。
 若い世代へ伝えたい事があるかとの質問に、わずか七パーセントの老人があると答えており、生産技術の高度化、生活の都市化でそうした面での老人の役割が低下したことを物語っている。地域や家庭での伝統行事もほとんど忘れられており、老人と若い世代とを結ぶモノヘの配慮が必要ではなかろうか。
 老人の経済生活を支えているのは、年金が三六パーセントと高く、次いで家業収入二五パーセント、子供からもらうと答えた人が二〇パーセントである。小遣いは、足りないと答えた人が三〇パーセントを越え、その使い方も身のまわりの生活用品、し好品となっている。食生活については、約九〇パーセントの人が満足していると答えているものの、その内容には問題があるように思われる。このような傾向は、その後も引継がれているようである。

 高齢者学習の内容 

 昭和五〇年代に入っても、老人大学は同じような形態で、毎年継続されてきた。五四年度に至り、老人大学という呼称に抵抗があるとのことで、運営委員会で検討された結果「幸福学習会」と改称されることになった。
   (五五年度)
  八月二七日中央公民館で第一回開講。「老人の生きがい」生涯学習
 推進講師玉井通孝講演。話し合い、レクリエーションで終っている。
  一〇月には、柳井川、西谷、中津の三地区に分散開講。「老人と健
 康管理」県スポーツ事業団指導係長松田宇講演。軽スポーツとしてク
 ロッケーの実習と体操、民芸品製作の実習(三地区同じ日程)
  一一月二一日第三回中央公民館で、「みんなに好かれる老人」愛媛
 県母子会顧問宮本カヨ講演。「今後の老人対策について」近澤村長の
 講演。懇談のあと閉講式。
   (五六年度)
  七月二九日第一回中央公民館で、「老人の役割」生活学習推進講師
 玉井通孝講演。「老人の健康とクロッケーの実技」県スポーツ事業団
 指導係長松田宇指導。
  一〇月第二回柳井川、中津、西谷で分散開講。「クロッケーのルー
 ル講習と実技」藤岡浅幸主事・中野明彦派遣主事指導(三地区同じ日
 程)
  一一月二四日第三回中央公民館で、「村政について」近澤村長講演。
 「高齢化社会との対応について」村長との懇談。話し合い閉講式。
   (五七年度)
  七月二九日第一回中央公民館で、「高齢化問題について」森教育長
 講演。映画による学習「嫁・姑のきずなを考える」藤岡浅幸主事指導。
  八月九日第二回柳井川地区「豊かな老後をおくるために」社会教育
 推進員大野章講演。「クロッケーの実技と試合」藤岡浅幸主事・中野
 明彦派遣主事指導。
  九月八日第三回西谷地区、柳井川と同じ日程で実施。
  一〇月七日第四回中津地区、「社会の情勢変化と老人問題」森教育
 長講演。クロッケーの実技指導藤岡浅幸主事・中野明彦派遣主事指導。
  一一月二〇日第五回中央公民館で、「村政について」近澤村長講演。
 「村長と語る」懇談。話し合いのあと閉講式。
   (昭和五八年度)
  七月二九日第一回中央公民館で、「恍惚の人とならないために」生
 活学習推進講師関享道講演。「カラオケ大会」渡部敏主事指導。
  八月一二日柳井川地区「健康管理について」久万保健所保健指導係
 長小浜小夜子講演。「映画学習」レクリェーション「クロッケーの基
 本練習とゲーム」渡辺敏主事・中野明彦派遣主事指導。
  九月一二日第三回西谷地区、柳井川と同じ日程で実施。
  一〇月一四日第四回中津地区、柳井川と同じ日程で実施の予定。
  一一月一一日第五回中央公民館で、「村政について」近澤村長講演。
 「村長と語る」懇談会。「話し合い」閉講式の予定。

 このように、幸福学習会で健康問題をとりあげるようになって、健康問題、医療問題にも多大の関心を持つようになってきた。クロッケーも指導の段階ではなかなか定着しそうになかったが、五七年度第一回村大会、郡大会が開催されてから熱をおびるようになってきた。年々幸福学習会への参加者も増えてきて、中央公民館へ集まる時には一〇〇名ほどの出席で会場いっぱいであり、老人クラブ活動も、自発的になってきており、このところ気分的にも行動的にも若返ってきて、老人の意気を大いに示している現状である。