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柳谷村誌

二 幼児教育

 幼児教育のはじまり 

 戦前はもちろん、戦後すぐの村の幼児は、今では想像をすることができない状態におかれていた。どの家庭も最低が三名、それ以上の子だくさんであったので、年上の子どもから順次下の子の守りをさせてきた。上の子が学校の時は、幼児たちは野良仕事についていくか、近所の子らと遊びながらの留守番で、放任の子育てであった。赤ん坊を山畑へ連れていき、目の届く立木に傘で日除けをして、赤ん坊をくくりつけ仕事に精出す風景も見られた。
 年もたち、食生活もようやく安定しかけて、気持的にも少しゆとりが持てるようになって、親たちは子どもに目を向けるようになってきた。
 旧川瀬村では、田植え時の農繁期に、婦人会の発案で会員の交代による季節託児所を開設したところ、仕事の能率も上ったし、子どもたちがわずか一〇日間程の集団生活で変化しているのに気付いた。これは何とかしなければの婦人会の話し合いから、畑野川小学校長らの積極的な協力により、就学前の幼児をもつ母親に呼びかけて、郡内最初の幼児学級を開設したのが、昭和二八年であった。二組編成で週一回の保育をして、経費は婦人会負担とし、小学校の教室を利用したものであった。
 それが刺激となって、昭和二九年には明神、野尻・久万・直瀬・露峰・二名などで順次幼児学級が設立されていくのである。
 小田町でも、昭和二九年に上浮穴郡連合婦人会長であり、民生委員でもあった亀岡ヒチは、婦人会有志を動かして、地元旧参川村上川地区で試験的に幼児学級を開設した。小学校教室を利用し、婦人会員が保母がわりをつとめた。
 こうした時に、幼児学級設立への機運を一層強めたのは、昭和二九年九月に久万小学校で開催された第一回上浮穴郡社会教育研究大会であった。第二分科会では、「幼児教育の振興策」を課題に各地域の婦人会員や母親たちが真剣に討議した。第一テーマ〝幼児教育の重要性について〟は、就学前の幼児を野ばなしにすることなく、平等に集団生活を経験させる必要がある。第二テーマ〝幼児教育の現状と不振の原因について〟は、一部の町村に幼児学級が開設されたが、他は婦人会が開設を目ざしている現状であり、一般の理解がまだ熟していない。第三のテーマは〝幼児教育の振興策について〟ここでは、町村当局が予算計上をして、幼児学級を設立することが先決であるなどの意見であった。この大会からのち、面河・美川・柳谷各村の婦人会が幼児学級設立への機運を高めていったのである。
 わが村の幼児教育は、昭和三二年四月一〇日、柳谷村婦人会総会において、西谷支部より、幼児教育の必要性が提案されて出発した。この総会では、
一 小学校入学の準備でなく、幼児教育の目的をもつ。
二 就学一年前の幼児を全員対象に保育する。
三 幼児学級は各地区ごとに開設し、日程を計画する。
四 社会教育の一環として推進する。
 以上の四項目が議決され、強力な設置運動を展開することが申し合わされたのであった。
 この決定に基づき、同年六月三日に柳井川大窪谷公会堂に、実験学級として第一号が開設された。対象幼児は二〇名で保母は正岡アケ子、山中サカエがあたり、月二回(一日・一五日)の保育で、「保育料は一人月額五〇円」とする託児所的性格のものであった。同じく六月二〇日に中津小学校家庭科室において、中津幼児学級(週一日保育)を開設した。つづいて七月三一日に西谷地区(本谷)幼児学級(週二日保育)が開設されている。
 こうした実験学級の開設と並行して七月三日には、婦人会三支部より、支部長を含む六名の参加一八名を三班に編成して、第一班は「運営の経費」、第二班は「運営の方法」、第三班は「運営と地域性」について研究する目的で、先進地の川瀬村畑野川幼児学級を視察した。続いて七月一一日には、幼児学級関係者、婦人会役員、小学校長、社会教育主事等の視察に基づく、今後の幼児学級のあり方についての研究会が開催された。
 八月一日、第一回上浮穴郡幼児教育研究会が開催され、運営と管理について研究討議がされている。前記正岡、山中らも出席したが、無資格者では責任がもてないと、自信喪失で帰ってきた。八月二日、西谷地区(古味)幼児学級を古味公民館で(週二日)開設。九月一三日、西谷地区(名荷)幼児学級を名荷分校校舎で(週二日)開設。これで西谷地区は全域に幼児学級が開設され、保母は婦人会選任の佐伯堅子が専任保母として三地区を巡回して運営、その保母手当は婦人会が捻出した。
 九月一六日、柳井川・中津地区に専任保母明星邦子が就任したが、当初は場所の都合で川前・百ヶ市・落出そして中津と毎日巡回をして保育していたが、何分悪条件であったので、柳一校の一教室を都合してもらい、柳井川地区川前・百ヶ市・落出を柳一校に統合整備して開設し、中津幼児学級を兼務した。
 婦人会からの強い要請で、同年九月二五日から専任保母二名が村費負担となり、西谷は佐伯・柳井川・中津を明星保母が担任、各幼児学級とも週二回の開設となったが、身分保証はなかった。翌三三年一月三日、明星保母が退職。森五月保母が就任する。三月一〇日に第一回柳谷村幼児学級連営協議会を開催して、運営上の障害と問題点の打開策について討議。管理運営には当然行政が当たるべきだと当局へ対して強い要望となった。

 幼児学級の設置 

 このような動きによって、昭和三三年四月、幼児学級が教育委員会の管理下となり、社会教育の一環として、行政的な位置づけがされたのである。それまでの間、会長森岡晴子・副会長山中辰江をはじめ、支部長の稲田利久・白木マリエ・中居栄などの役員ならびに西谷小学校長大西清馬が果した努力は、格別のものであった。
 柳井川幼児学級は一学級に整備統合し、落出定時制高校跡に開設するようになるが、幼児数が多く、二組に編成して一日に一組を開園し、週四日をもって二回開設としていたが、中津を兼務しているため保母は重労働であった。西谷は古味と大成に整備統合し、中津は一学級そのままの運営とした。このようにきびしい労働条件であったので、八月三一日森五月保母が退職して酒井幸子保母が就任した。
 現場の要請で幼児の社会見学旅行をすることになり、その資金集めで全村一週間ほどの映写会を催し、父兄負担をいくらか軽くして三四年三月二三日、高浜から松山方面へ第一回幼児学級社会見学旅行を実施したのであるが、その後毎年恒例となって今に継続されているのである。
 昭和三四年四月一日付で保母一名が増員となり、石原美代子保母が就任した。幼児学級第一号を開設以来二年目に三名の専任保母が設置され、大字三地区に配置された。古味・大成学級においてはこの期を以って隔日保育(週三日)に踏み切ったが、柳井川においては依然幼児が多く、二組に編成して実質四日間を当てなければならず、中津担当保母も柳井川保育を手伝って運営しなければならないので、中津学級とともに隔日保育は見送りとなった。
 同年一〇月二四日、第二回柳谷村幼児教育研究会が開催され、各学級の情報交換運営上の問題点、保育内容の検討などがされている。三五年四月一日、「柳谷村幼児学級の設置及び運営に関する規則」を制定し、ここではじめて、柳谷村幼児学級園長を三小学校長に委嘱した。佐伯保母が退職して高橋美恵子保母が就任し、本年度から全村隔日保育(週三日)の開設に歩調が揃った。
 この年一二月七日、中津幼児学級において第三回柳谷村幼児教育研究会が開催された。三六年に至り郵便局舎移転の名目で村は、定時制高校跡の建物を落出へ払下げた。落出からは立退きを迫られ柳井川幼児学級は路頭に迷うことになった。担当者は憤って主脳部とかけ合ったがどうにもならず、無量寺へ泣きついて、一間ほどの廊下を保育室がわりとし、便所の新設を村費でして、遂に七月二五日、柳井川幼児学級は無量寺へ移転した。
 昭和三六年四月三日付厚生省令第七六〇号による「へき地保育所設置要綱」に基づき、昭和三六年度からへき地保育所が制度化した。村では三七年度から中津・古味・大成学級をへき地保育所として設置する計画を三七年二月三日付で県へ申請した。四月一日より古味・大成・中津幼児学級を全日保育に踏み切り実施したが、柳井川は場所の都合で出来なかった。このときから保育料が一〇〇円に改められている。

 へき地保育所への切り替え 

 三七年九月一日付愛媛県指令婦第九八九号により、中津・古味・大成幼児学級については、昭和三七年度へき地保育所に指定された(以後毎年更新)。一〇月一日付で前記三幼児学級を保育所に切り替え、幼児学級園長を保育園長に改めて委嘱した。
 へき地保育所設置要綱基準により、保母が増員されることになり、三名の保母が一躍八名となったので、幼児教育は飛躍的な充実ぶりであった。新規採用の保母として、大成・渡部サトル、古味・土居福江、柳井川・堀尾増恵、中津・高田洋子、大成・古川文子が所属した。
 これらの充実を機会に、大成・古味・中津保育所は二年保育になったのである。柳井川は三八年四月一日にようやく全日保育となった。
 柳井川幼児学級もへき地保育所設置申請をしたが、へき地級の指定地域ではないため困難であった。県から担当者も来られ、現地検討をした結果善処することが約束され、三八年九月一七日付愛媛県指令婦第九一六号により、柳井川幼児学級も昭和三八年度へき地保育所の指定をうけることになったのである。
 このように全村的に幼児教育がへき地保育所に統一され、同一歩調ですすめることができ、職員も大幅増員された喜びの反面、職場の人間関係でわずらわしい問題も起り、新たな悩みも生れたりした。三八年一二月一日付で高橋美恵子・土居福江保母が退職して、山地徳子保母が古味に就任した。三九年四月一日には、日野悦子保母が古味に、加藤照恵保母が大成に就任することになった。
 人事の方はどうやら落着きがみられるようになったが、施設や設備については問題が解決されず、独立した施設は、古味保育所だけで他は、大成集会所、無量寺、中津公会堂などを利用する状態が続くのであった。
 昭和三九年度には中学校が統合され、大成は旧西谷中学校舎へ、柳井川は柳井川小学校舎へ移転ができて、施設の当面の問題が解消され、柳井川保育所もほかの保育所と同じように二年保育が開始された。保育内容も、保育基準を統一して内容の充実が進められるとともに、保育所運営の基盤がようやく確立された。
 昭和四三年になって、保育所を単位として、家庭教育学級が開設され、家庭、保育所ぐるみの幼児教育が進められるようになった。しかしながら、このころから幼児の減少が急激に進み、古味・大成・中津の各保育所は、小規模保育所としての新たな悩みが生れてきた。
 昭和四七年一月には、総工費八二〇万円(鉄骨・平家建・二八六・四〇平方メートル・保育室二・事務室一・遊戯室一・物置一)で柳井川保育所が落成した。施設問題では大窪谷・川前・落出・百ヶ市集会所の「飛石集会所時代」「落出定時制高校跡時代」、「無量寺廊下時代」そして「旧柳井川小学校跡時代」と、苦難の変遷を経てきただけに、この独立園舎の完成は、関係者にとってその喜びと感激は、はかり知れないものであった。
 この年三月三一日に、中津保育所も中津公会堂から中津小学校へ移転した。また郡幼児教育連絡協議会が中心となって研究を続けてきた「保育指導計画の基準」がまとめられ、これを中心とした保育が行われるようになった。
 幼児の減少によって、混合保育を続けてきた古味保育所も、四七年度を最後に、西谷保育所として大成に統合され、さらに昭和四八年度二学期から、全村的に年少組も全日保育を実施することになった。

 幼稚園への切り替え 

 五四年に至り、幼稚園設置数の少ない愛媛県としては、文部省の方針に基づく、幼稚園の増設について各市町村に対して強い要請と指導が行われた。幼児数の減少に伴い村のへき地保育所の存続が危ぶまれる状況も察知されるところから、近澤村長の決断によって「幼稚園設置」に踏み切ることになり、事務手続きをすすめてきた。ところが思わぬ障害に直面することになった。県の婦人児童課の壁が厚く、村に一人の保育に欠ける幼児が居ないはずはなく、保育所を一つも無くすることは、福祉の切り捨てだというのである。村としては、議会へも「幼稚園設置の方針」を公表した矢先だけに、大いに当惑するところとなり、再三、再四にわたって折衝を続けたが、進展がみられないまま、柳井川保育所をそのまま継続として、西谷・中津保育所を幼稚園に切り替えることと定め、議会の了承を求めるとともに、柳井川地区嘱託員並びに父母の会にも事情を説明して了承を得ることができ、いよいよ同年四月一日けで、西谷・中津幼稚園が誕生し、村の幼児教育は「幼児学級時代」から「へき地保育所時代」さらに「幼稚園時代」へと進展したのであった。
 ところが、幼稚園を設置したからといって、幼児の絶対数が増加するわけのものではなく、減少の傾向が続いて年年きびしい状況になってきた。郡内も同じ傾向にあるところから、何とか時代に即応する新方策を求めたいと構想したのが、「集合保育」であった。
 五五年度に西谷小学校長として赴任した、林雅孝の夫人林マチ子は、幼稚園長を経験している幼児教育の権威者であったので、この方の指導、助言を得ながら、五五年度を準備期間として、現場の教師らによって「昭和五六年度柳谷村集合保育年間計画書」の検討がすすめられて策定されたのであった。

 集合保育の実施 

 いよいよこの計画書に基づく、五六年度の集合保育が実施されることになった。この集合保育の目的は、村内の幼稚園及び保育園が合同して、集合保育を実施することにより、幼児ひとりひとりに好ましい刺激を与え、よりよい集団生活を経験させ、小規模幼稚園及び保育園の相互補完をはかるとともに、小人数保育の効率を高めることであり、次の事項に留意して集合保育をすすめた。
ア、集合保育によって、幼児教育の効果を挙げるよう努力するとともに
 教師の研修意欲を高めるようにする。
イ、幼児の不安感を除去し、喜んで集合保育に参加するようにしむけ、
 より望ましい保育になるように配慮する。
ウ、月に一度保育者全員が集合し、計画、反省、保育の流し方などにつ
 いて協議する。
エ、一週間前には、保育担当者が日案を作成し、各園に送付する。
オ、各園では、疑問点、質問点があれば連絡し、確認しておく。
カ、集合保育と各園での保育の流れを考慮し、特に事前指導について、
 各園の連絡を密にしておく。
その効果について(幼児の立場から)
・ 幼児たちは集合保育を非常に楽しみにしている。
・ 集合保育を始めた当初は、戸惑い気味で友だちとのかかわりが見ら
 れなかった幼児も、二学期半ばごろから進んで話しかける姿が見られ、
 集団としての意識の中で生活している様子が見られるようになった。
・ 自分の園では、小人数の気安さからわがままをいっている幼児も、
 多数になると自制するようになった。
・ 幼児の態度が明るくなった。
・ 絵を書いたり、物を作ったりする時、すぐやめていた幼児がみんな
 と一緒にすると、根気よくしたり、工夫したりして意欲的な態度がみ
 られた。
・ 幼ない心や身体で緊張しすぎたり、張り切りすぎたりして、帰りの
 バスの中で寝てしまう場合もあった。
(幼児の声)
・ みんなで手をつないで輪をつくった時、「ワァー大きい。」という
 感嘆の声。
・ 一回目の集合保育の日、家に帰って「お母さん男の子がおったんよ。」
 という驚きの声。
(指導者の立場)
・ 四歳児、五歳児の発達に応じた教材の選択や指導ができた。
・ 小人数ではできない遊びをしたり、その遊びをいっそう広げたりし
 て楽しい遊びにすることができた。
・ お互いが保育を交代して行い、研究討議をすることによって、より
 よい保育技術を高め合うことができた。また、先輩、後輩が努力し合
 って集合保育を行うことにより、それぞれの良さを認め合い、お互い
 の人間性を高めるのに非常に役立った。
(反省から生れた今後の課題)
ア 実施日の間隔があくと、高まりかけた幼児同志のつながりが後退し
 たり、興味がうすれたりすることがあるので、教材と日程の組み方や
 時数増などを配慮して計画をたてることが大切である。
イ 片寄りのない教育課程を組み、全領域の指導ができるような配慮が
 必要である。そのためには日数が必要となる。
 これらの実施について、父母の声は「多人数の中で指導してもらえる機会を是非ふやしてほしい。」「積極的に協力するから、地域の特色を生かし特色のある地域へ出ての園外保育をしてほしい。」「子どもが集合保育の日を待ちこがれている。」など、よいことだから回数を増やせという支持の声であった。このような反省と今後の課題に基づいて、昭和五七年はさらに拡充の方向で計画が練られたのである。
 昭和五七年度は、さらに回数を増やして内容の充実をはかりながら実施したのであった。問題は子どもを運ぶ車の運行で、連絡の手違いや変更のやむなきに至る場合もあったり、経費も少なからず必要とされたので、もっと自由に使えるバスがほしいという声が現場から起った。集合保育を実験にその成果を確認して、さらにこれを小学校の「集合学習」へ発展させたい教育委員会の意向もあって、五七年度の当初予算で、冷暖房付デラックスなマイクロバスが購入され、「集合保育」「集合学習」を優先に運行できることになって、現場は大喜びであり他町村からうらやまれる存在となった。五七年度以降の集合保育や学習に効率的であったことはもちろんであった。
 昭和五八年度の郡幼児教育連絡協議会主催による、夏季研究会が、六月二三日に柳井川保育所で開催された。郡内の幼児教育関係者が参観する中で、はじめて集合保育が公開されたのである。
 村の集合保育は三年目に入っており、他町村に先がけているだけに関心も高く、注目された。まず赤組、黄組の合同保育では、幼児が一人一人の自己紹介で、所属幼稚園や自分の名前を元気よく、張りのある声ではっきりと言えていた。
 そのあと、赤組は園舎の遊戯室で、黄組は柳井川小学校の体育館で、「かえるになって遊ぶ」を主題に、それぞれの保育を公開した。どちらもどこの園児かわからないほどに、みんなが一つになって活発に活動していた。
 研究討議では、いろんな角度から質問や意見が集中して、充実した研究会に盛上った。五七・五八年度と集合保育の実際を指導して、五八年度に御主人の転任で松山へ出られた林マチ子が、講師として、「集合保育について」講演した。
 講師は二年間指導にたずさわった体験から、実践の過程を八つの視点から分析して説明。いろいろと具体的実践の中で、試行錯誤する積上げの苦労はあったが、やることによって、すばらしい成果が上ったことを述べて感銘を与えた。
 昭和三二年に出発したわが村の幼児教育は、いろんな過程を経ながら五六年度に至って、幼児数の減少する事態に対応する「集合保育」という新しい方策を他町村に先がけて手がけることが、先導的試行の役割を果たしているのであり、他町村に少なからぬ刺激を与えているのである。

柳谷村集合保育実施計画(56年度)

柳谷村集合保育実施計画(56年度)


柳谷村集合保育実施計画(57年度) 1

柳谷村集合保育実施計画(57年度) 1


柳谷村集合保育実施計画(57年度) 2

柳谷村集合保育実施計画(57年度) 2


P528 第21表 柳谷村保育園、幼稚園園長

P528 第21表 柳谷村保育園、幼稚園園長