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柳谷村誌

一 概説

 二〇年代の社会の動き 

 昭和二〇年は、いよいよ本土決戦の雲行きとなり、土佐湾に敵が上陸するかのような話が、まことしやかに村民の間で語られ、緊張が日々高まってきた。
 それかあらぬか、艦載機グラマンが、空を黒く染めるほどに、大編隊をなして村の上空を松山市の方向をめざして飛ぶ姿を見るようになった。
 はじめ、「なんと日本にも、まだ飛行機がだいぶ有るねや。」と呑気なことを言っていたが、それが敵機とわかって肝をつぶし、あわてて避難する一幕もあった。
 八月一五日、重大放送があるとの前触れで、天皇陛下の玉音が放送された。村のラジオは電波の状態が悪く、明確に聞きとれなかったこともあって、忍び難きを忍んで、戦争を統行すると受取った者も一部にはあったが、大方は戦争は終ったと悟った。
 今までの緊張の中に、大きな空洞があき、何をどうしてよいのか気抜けの状態であった。ただ、その夜から灯火管制が解かれて、電灯がまともに見られたことが、印象深いことであった。
 村民の間には、次のような風評がまたたく間に行きわたった。「やがて吉田浜に占領軍が上陸してくるだろう。男性は直ちに去勢され、女性は暴行されるに違いない。顔に墨を塗るか男装をして、山の中へ逃げねばなるまい。」とまことしやかな風評は、まことに悲壮な気配であった。そんな緊張のあわただしさの中に、四国占領の将兵主力一万名が、吉田浜と梅津寺に上陸してきた。ところが、男性の何人かは毎日交代で松山まで使役に呼出されることはあったが、日当は支給された。
 ジープで訪れてくる米兵は、服装もスマートで、チューインガムやチョコレート、タバコなどをふるまって、住民を手なづける風で、子どもたちは、めずらしさと物欲しさでつきまとう風景が見られ、村民と占領軍兵士とのトラブルは見られなかった。
 そのような間にも、都会の食糧難のためや外地からの引揚者で、やがて村の人口は増加の一途をたどるようになったが、物資不足、インフレ、食糧難はその極に達していた。主食二合一勺の配給が、一一月に二合三勺となったものの、代用品であったりした。また、当時の物価は、配給米が一升九〇銭、ゴールデン・バット三五銭、ハガキ五銭であったが、忽ちその貨幣価値を失い、耐亡生活とタケノコ生活を余儀なくされる有様であった。人心は虚脱状態から抜けきれず、今までの秩序は一挙に音をたててくずれ、自暴の生活は、牛の密殺・野あらし・物資の闇取引等々、道義は全く地に落ちた退廃の生活現象であった。
 二一年は新円生活がはじまり、酒・ビールは製造を禁止するという食糧難の年であった。この春、村においては引揚者西川安高が、西谷住民に檄を飛ばし、「役場中央移転問題」を惹起した。
 人心の虚脱状態から、ようやく自由・平等・民主主義に目ざめようとする、新しい時代への風潮と息吹きがとうとうと、西谷地域にも流れ込みつつあった時期だけに、今までの長かった統制からの解放感に一挙に火を点じた結果は、西谷住民一揆となって抑圧された言論を一気に吐き出す気勢となって燃え上った。すなわち、「役場を村の中央へ移転せよ、さもなくば分村だ。」という強硬な論法であった。
 約一〇か月の紛争の末、役場及び農業会の支所を西谷に置くという条件で、一件が落着するところとなった。
 つづいて、二三年二月七日、「休場部落分離方陳情」が議会へ提出された。すなわち、柳谷村を離れて中津村へ移りたいというものである。
 分離問題をそうたやすく処理出来るはずもなく、問題がこじれて、村にかかわる役員を総引揚げという、強行手段がとられたりもしたが、その後の中津村・柳谷村の協力によって、休場沈下橋の建設ということで落着をみている。
 このように続いて村を分離するような、大きな事態が起っているが、いずれも、抑圧の時代から新しい主権在民の時代への流れをめざして、民主化へ胎動する住民の意識的目覚めの一つの過程であったと思われる。
 公職追放令による新旧指導者の交代も、大きな出来ごとの一つであった。昭和二二年四月五日、県下一斉に第一回市町村長の公選が実施され、はげしい村長選挙の結果、四月七日に公選初代村長として、西本金太郎が村長に就任し民主政治の与望を担ってのはなばなしい出発ではあったが、村政上の問題は山積みしており、前途多難の時期だけに、新しい村政への出発に、村民がひそかに期待するところも大きかった。
 二二年に実施された臨時農業センサスによって、農家が記入した切替畑、焼畑の面積に対しても、地方事務所から苛酷な食糧供出数量を割当てられ、その対応に村を挙げて苦慮する大問題となった。
 もし、割当量の供出を完了しなければ、当時、ノドから手が出そうなほど欲しい報奨物資は、一つとしてもらえず、農家の各戸は、隠匿物資の摘発を受け、場合によっては占領軍指令による強制労働もあり得る情勢であったので、割当てた地方事務所も、割当てられた村当局も、この難問題の切抜けは、大変な問題となり、村民が直接選挙で選び、新しい時代の指導者として期待された西本村長は、この問題の処理のため、出鼻をくじかれる結果となって、遂に、二三年四月八日辞任するに至ったのである。
 二三年七月一日、有志の工作によって無投票で永井元栄が村長に就任することになった。これを期に谷脇則光助役が辞任することとなって、久保内幸吉・永井栄澄の二人助役を選任するという異例の事態が生まれた。
 このような、村の政治のあわただしい動きの中にあって、村の社会教育関係団体のトップをきって、二一年に青年団が結成されたようである。資料に柳谷第二青年団という言葉が出ているところから、大字西谷・柳井川それぞれに青年団が結成されたことも思料される。二三年に至り永野・泉増喜宅の二階に西谷・柳井川の青年有志が集まり、村の青年団の一本化の話し合いを持ったのをきっかけに、その後会合を重ねて大同団結したようである。二一・二年の指導者としては、林幸盛・大西末廣などの名が挙っている。
 これより先二一年二月五日、父二峰村に各青年団の代表が集って、「上浮穴郡連合青年団」を結成している。
 この年八月には、久万町で体育講習会が開催され、村からは林幸盛・西川渉・兼井義親・永井一朗・大西文寿・佐古広枝・西森スミル・大岩光時・和田ツユ子・大崎テル子などが参加しており、それ以後、上浮穴郡連合青年団の体育大会が年々盛大に催されるようになったものと思われる。
 村に青年団は結成されたものの、活動の主体は集落単位であったり、地域のブロック単位であったようである。
 世相の混乱と退廃的な気風の中にあって、健全な活動や民主団体としての方向も定まらないまま、楽団・芝居・踊りなどの演芸会が流行し、落出では戦後の食糧難を克服して、住民総出の労力奉仕で公会堂を建築した。そこを拠点として松本健を会長とする会員五十名余りの落出青年会が結成され、さきほどの演芸会や多彩な活動を展開してきたが、昭和二三年の二月ごろ、西谷支所の落成式に際して、「父帰る」などの演劇を発表している。
 そのような動きが刺激となって、その後、西谷下三組の青年が労力奉仕によって、本谷公民館を、名荷上・下・古味などに落出と同じ規模の集会所が建築されていった。
 体育行事や、演芸会だけではあき足らず、郷土を清らかな文化村にしようとの願いから、松本健を会長とする清郷会を結成。資金の持寄りや、運動会のバザー利益金を当てて、清郷文庫を設立。当時出版物に飢えていた人々に、仙花紙の印刷ではあったが、新刊図書を購入して、女子事務員を一名雇い入れ、一冊五円の貸出料で、私設小型図書館のような営みの新風も吹き込んでいる。また、同好者によるガリ版印刷の「薫風」と名づけた文芸冊子が、片岡君子の世話によって、毎月発行されていた。落出の青年団有志によって、松本清宅に毎月一回聖書研究会の集いを持ち、聖書の研究とともに松本所有の新刊図書を読み合うなど文化活動も盛んに行われていた。磯ヶ成のドレメを拠点とする社交ダンスの流行なども、時代の急激な変化を物語る動きであった。
 生活の秩序が序々に回復するにつれ、世論としての「民主国家建設」とか「新日本再建」の声が国家的課題となり、国民の当面する一大目標として、その方向への道筋が定まりかけてきた。
 二三年四月には、上浮穴郡内各学校のPTAが結成され、村の単位PTAも、教員主導で結成されるに至り、二四年六月一〇日には、上浮穴郡PTA連絡協議会が発足することになった。 
 村の婦人会は、二四年八月一四日役場会議室で結成をしているが、資料がないために詳細なことは不明である。上浮穴郡連合婦人会は、二四年九月に結成されたようで、村の初代会長鈴木嘉子が参加している。そのあと、鶴井タケ子・中村ミスギなどが指導的役割を果たした模様である。婦人会活動の主体は集落単位におかれていて、子どもの日の行事や、敬老会などが主な行事であった。また、学校参観日にはエプロンがけでの呼びかけが、後の会員制服につながっていく。
 二六年一一月には、愛媛県公民館連絡協議会が結成されて、二七年五月には、第一回愛媛県公民館研究大会が開かれている。郡ではこれに遅れて、二八年三月教育事務所職員、田渡村、川瀬村、仕七川村の関係者等の話し合いによって、上浮穴郡公民館連絡協議会を発足させ、初代会長に川瀬村日野泰村長が就任している。当時の組織に参加したのは、川瀬・弘形・田渡・父二峰・面河・仕七川・中津の七か村で、わが村の公民館はさらに数年立遅れることになるのである。
 二七年一〇月五日、村内七投票所において、愛媛県教育委員会教育委員並びに柳谷村教育委員会教育委員の選挙が実施された。当日の投票率は七九パーセントであった。翌一〇月六日、柳谷村教育委員選挙の開票が行われ、竹村叶 四八七票・高岸勝繁 四三四票・土居通保 四一九票・中村秀儀 二三五票・目戸国丸 一九六票・佐賀定善 一五五票という得票結果であった。
 この教育委員の選挙によって、これからの村の教育は、専門的に教育行政としてすすめられる画期的な動きとなるのである。
 二八年五月二一日、柳谷村役場において柳谷・中津の合併について会議が開かれており、その後引続いて合併問題が会を重ねて詰められていくことになる。
 そのような動きの中で、第一回上浮穴郡社会教育研究大会が、二九年九月一一日、久万小学校で開催された。
 当日のシンポジウムでは、①六・三制による校舎建築等が、町村財政を圧迫しているが、社会教育予算はあまりにも少ない。②郡内の指導者・関係者の自覚と連絡協調が必要である。③封建的因習が根強く、自主性に欠け向上意欲がない。等の問題提起がされた。
 全体討議では、①社会教育専任主事の設置、②町村社会教育予算の増加、③郡の組織化は必要であるが、各町村も組織化に努め、それと並行して行うことが大切である。そのために、郡地教委協議会が中心となり、各町村並びに、郡の組織化、社会教育機構の整備をすすめること。④行政面での最高責任者である町村長は、この問題について真剣に考慮し、物心両面より、社会教育の振興を先頭にたって推進されたい。等の意見がだされ、次の決議がされた。
  「社会教育法施行五周年に当たり、九月一一日第一回上浮穴郡社会
 教育研究大会を久万町において開催。郡内社会教育不振の原因を究明
 し、その振興方策を討議研究した結果、盛り上る大会参加者の要望と
 して、上浮穴郡社会教育の振興を図るためには、郡を一丸とし、関係
 団体の総合的協力により社会教育振興協議会を速やかに結成し、郡と
 しての根本方針を確立し、推進することに意見が一致した。
  各町村においても全村教育体制を確立することにより、真の全村、
 全郡的機能を発揮することが可能であることを認め、大会参加者二五
 〇名余の総意により、次の二点を挙げて当面の課題とする。
 ①町村の全村教育体制は、町村長を中心として教育委員会の責任にお
  いて推進する。
 ②郡の組織は、上浮穴郡地方教育委員会協議会の責任において、地教
  委・町村長会、郡公連の代表者を召集して原案を作製し、各機関、
  団体と協議の上、組織化すること。
 この段階では、川瀬村の全村教育体制の先進的役割りに対して、各町村体制の隔り、更には、上浮穴郡公民館連絡協議会に未加入町村の社会教育体制の遅れ等、郡内の実情反省と郡全体としての大きな前進を督励している様子がうかがえる。
 この研究大会が刺激となって、その後の村教育委員会の社会教育に対する認識も一段と深まり、青年学級・婦人学級等の取り組みに積極さが見られるのである。
 当時の村教育委員会事務局は、教育長は助役が兼任、職員は年輩者が一名で、学校教青に主力がおかれていたようであるが、教育委員は、先進地視察をするなどして、社会教育へも積極性を見せるようになった。

 三〇年代の社会の動き 

 昭和三〇年三月三一日、柳谷村・中津村の一部吸収による合併がされ、新柳谷村が誕生した。役場組織は人員的に拡充されたが、教委の組織は現状のままであった。社会教育関係団体である青年団・婦人会も中津を吸収して組織は拡大し、村は新しい段階へと入った。
 昭和三一年には、川瀬村上畑野川公民館において、第一回上浮穴郡婦人大会が開催され、本村の婦人も参加したが、川瀬村の全村教育体制と専任社会教育主事を設置している先進地の社会教育の取り組みにじかに触れたことによって、村の婦人会幹部に与えた刺激は大きかったようで、村に社会教育主事を置いてほしいとの要望の声が強まり、村当局へも強い要望が繰り返されたようである。
 昭和三一年六月一〇日、永井元栄現職村長と、助役を辞任して立候補した政木茂十郎の村長選挙は一騎打ちの激しい選挙戦となったが、「民主村政」「ガラス張り村政」をスローガンとした政木茂十郎が当選した。
 果たしてその選挙で、社会教育主事の設置が公約されていたものかどうかは不明であるが、強い世論の訴えもあって三二年四月一日付で一部兼任ではあったが、社会教育主事が設置された。このことは村の社会教育にとって画期的なできごとであった。
 社会教育団体が、自主性と称して思いのままに活動することは、聞こえはよいようであるが、行政的には放任であって教育不在ともいえる。教育行政の中に社会教育が正式に位置づけられることは、住民にとって教育委員会に社会教育の窓口が出来たことになる。社会教育が行政主導型ですすめられるきらいはあるが、社会教育団体に活力がよみがえり、その進むべき方向が明示され、活動が活性化する働きがあったことは事実である。
 これ以後の村の社会教育は、遮二無二、先進地に追いつけ、追い越せの意気込みで、昼夜を分たず大車輪の活動を展開するのであるが、その間に川瀬村をはじめ、先進地から啓発や触発されることも多かった。
 まず最初の取り組みは、一六ミリ映写機を購入して、村内各集落を婦人会や青年団を仲立ちとして巡回することからはじまった。青年団や婦人会から要請があれば、日曜日といわず祭日といわず、むしろその方が多かったが、村の隅々まで巡回し、行かない集落はないほど巡回が繰り返された。その間に社会教育行政と住民との間に、直接的なコミュニケーションが密にはかられたことは、社会教育にとっては大きな収穫であった。
 昭和三四年ごろ、青年団活動の盛り上りで、他町村には公民館があるのに村には無い。公民館設置運動を展開しようと大きな意気込みが見られたが、昭和三五年三月二九日、柳井川中学校で村内各層代表による、中学校統合問題協議会が開催されたことによって、公民館設置のお株は、中学校統合問題にとって代わられ、その後長らくの青空公民館が続くことになる。
 この中学校統合問題は、その後村の重要課題となって、合併間もない新村をゆるがす大きなうず巻きとなり、四年間にわたり全村民を巻き込む政治問題化するのであり、三九年三月八日、統合柳谷中学校の落成式を迎えるまで、各種会合を重ねた回数は数えきれず、紛糾が連続するのであるが、その間に村民が教育に示した情熱、討議の積重ねが、村民の意識の変革に及ぼした影響は少なからぬものがあったと思われる。この問題に注がれた村民のエネルギーは、村に生き残るための議論と実践のためであり、その後の村づくりの村民意識としても決して無駄ではなかったように思われる。
 昭和三三年一一月二七日皇太子殿下と正田美智子さんの婚約が発表され、翌年四月の結婚は国内を沸かせるニュースとなって、村内にもテレビが入るきっかけとなり、さしもに黄金時代を誇ってきた映画も斜陽化することになる。三五年九月一〇日から、NHK・民放五社がカラーテレビ放送を開始したことによって、急激にテレビ時代へ移行することになった。
 昭和三七年六月一六日現在のテレビ普及状況(柳谷郵便局調)をみると、柳谷村の普及台数は三一七台、近辺の普及率は、松山市三九・一パーセント、柳谷二五・九パーセント、久万一八・二パーセント、美川九・一パーセント、小田七・九パーセント、面河四・八パーセントで、郡内ではわが村は高い率を示していた。電気洗濯機の普及は全世帯の三分の一に及び、軽自動車一五六台(オートバイ二五〇CC以下のもの)、自家用車五五台、うち農家所有四台と、生活様式の変化も見られ、経済高度成長の片りんがうかがえるようになってきた。
 このころから若者の減少が著しくなり、郡連青や県連青の正常化問題もからんで、三七年から四〇年にかけて、青年団は自然消滅となるのである。
 三九年三月一九日、政木茂十郎は村長を辞任し、翌三月二〇日、近澤房男が村長に選任され、静かなうちに政権交代が運ばれた。
 三月二八日、目戸巌が収入役に選任され、七月八日には高橋強が助役を辞任した。そして一二月二五日、助役に目戸巌が、収入役に政木明がそれぞれ選任されて体制が整った。この年は、四年間にわたって紛糾が続いた中学校問題がようやく一件落着の年であったが、村の主脳部にあわただしい交代劇が演じられた年となった。そしてこの年生れた体制が、そのまま現在に引継がれている。
 このころから国の経済は高度成長が顕著になり、それと平行するように村からの挙家離村が目立ち、地域の指導者や青年団、婦人会等の指導的役割りを果たしてきた人々も次々と村外への転出が目立つようになってきた。
 それらの人の動きとは別に、三八年七月一二日に老友会西谷支部、翌一三日老友会柳井川・中津支部がそれぞれ結成されている。

 四〇年代の社会の動き

 また、四一年八月二七日、落出公会堂において青年団が五年ぶりに団員七〇名で再発足する動きも見られた。
 四〇年六月ごろから国道三三号線改修工事が全面的に開始された。幅員のせまいデコボコ道が二車線になる大工事であった。工区別に大手業者が入るため、労働力の動員はめざましく、われもわれもと求人に応じて就労することになった。このため村内の労働賃金は急上昇し、残業をすればそれだけ高収入になることもあって、日数をつめるため農家でありながら農林業を放棄する現象が続くのであるが、四二年八月ごろに工事が終わっても高収入のことが忘れられず、つながりの出来た組の移動に従って、他県まで出稼ぎする労務者が増加した。
 また、落出集落は道路の幅員拡張のため、片側の家並みは立退きを余儀なくされることもあって、挙家離村をする者が続出した。
 このように、人口の減少が目立つようになったので、四二年五月、上浮穴郡の社会教育関係者で、「上浮穴郡出稼ぎ実態調査」が行われ、同年九月三日、久万小学校で開催された第一四回上浮穴郡社会教育研究大会で調査結果が報告されている。続いて、四三年三月に「上浮穴郡人口過疎実態調査」が行われ、同年九月一日久万小学校において開催された第一五回上浮穴郡社会教育研究大会で、「上浮穴郡における過疎現象について」調査結果の報告と「人口過疎現象と今後の村づくりのあり方」について、郡としてはじめて過疎問題を取上げた討議がされ、愛媛大学法学部助教授横山昭市が「人口過疎現象について」講演をしている。
 このころから過疎問題とそれにからんだ高齢者問題が、上浮穴郡のそして柳谷村の行政課題となるのである。
 近澤村政で過疎の歯止めとする地域開発が積極的にすすめられるのと平行して、社会教育では村民の意識的過疎を防止する諸活動を展開するのであるが、経済と物資を中心に人心が傾き、利己主義は自己中心になって、他人のことにかまっていられない、自分のことで精いっぱいと連帯感は薄れ、今日一日つぶしたら日当いくらの損得と、学習機会や社会参加にそっぽを向く現象が濃厚となり、社会教育がやりにくくなる時期に遭遇するのである。
 四四年一〇月三一日、柳谷中学校体育館が落成し、続いて四五年一月新庁舎併用中央公民館が落成した。青年団が過去に公民館設置運動を起そうとしてから一〇年の歳月を要して、ようやく公民館と呼べる建物を現実に見ることになった。
 華道講座・茶道講座・書道講座・夏季講座等々、その他学級や学習会が計画されたが、人々は物珍しさも手伝ってか喜々として集まってきた。過疎現象に憲気消沈しがちであった住民にもようやく誇りと自信がよみがえったようで、活動にも活力がみられるようになった。
 四六年六月には、柳谷中学校と中津小学校に、郡内トップを切って夜間照明施設が完成されて人々を驚かせた。これまでの常識では、夜間にスポーツを楽しむなど想像もできなかったことである。つづいて八月には西谷小学校にも施設ができ、さきに完成した柳谷中学校体育館とともにこれらの施設は、青年や婦人のスポーツ志向へのきっかけとなり、社会体育は一時に花が開いてその後年々充実していくのである。
 さきに完成した中央公民館は、庁舎併用であるため双方の不便もあって、独立公民館の建築構想がされるようになって、四九年一二月、基幹集落センター(センターやなだに)が完成して落成式が挙行された。名前はともかく、独立した中央公民館である。教育委員会事務局も移転して、事実上公民館運営をすることになった。
 巨額の建築費を要したにかかわらず、閑古鳥が鳴くのではなかろうかと心配されたが、実際にフタをあけてみると以前の公民館よりももっと住民には歓迎されて、毎日のように利用をすることで活況を呈し職員はうれしい悲鳴をあげるほどで、次々と公民館としてのプログラムも提供していった。

 五〇年代の社会の動き 

 五二年一月、西谷公民館としての「西谷生活改善センター」が落成し、つづいて五三年二月中津公民館としての「中津集会所」が落成した。西谷・中津共に住民の拠点が出来たことによって、公民館本来の姿である「住民自らの結集による地域づくり」が、徐々にではあるが着実にすすめられていくのである。そのあらわれが昭和五五年一〇月第一回中津ふるさとまつりであり、五六年一一月の西谷林業まつりであった。
 さらには、森林組合の複合建物として、五八年度事業で柳井川公民館の建築も計画されており、各集落には年次計画で着々と近代的設備を伴った集会所が建築されてきているので、村がすすめてきているこれらのコミュニティーの拠点づくりから、社会教育としては、一歩をすすめて、行政と住民、あるいは住民相互のコミュニケーションをいかにきめ細かいものにしていくかを図っていくべきであろう。
 また、五六年二月からはじまった新面三発電所工事は、工費二一七億円を伴なう一大プロジェクトであり、村にとっては大きな出来事の一つであった。国内的不況の中にあって、わが村は不況知らずの好況を呈し、村民のうち、中津住民の恩恵は特に大きかったようである。しかし、社会教育の面では、大きなプラスの要素もあった反面、マイナス要素もはたらいており、この電源開発工事は西谷地域へも予定されているので、影響が引継がれていくことになるが、プラス要素を大きくマイナス要素を少なくする努力と共に、新しい社会教育の課題が生まれそうである。
 さらにこれからの社会教育では、熟年や高齢者を対象として、「いかに美しく老いるか」「老後をいかに楽しいものにしていくか」という学習課題が時代の要請になろうとしている。