データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

柳谷村誌

一 青年団・女子青年団

 遠く藩政のころ各部落には、子どもから年寄りに至るまで、それぞれの年齢の段階に応じた寄り合いがあった。子供組、若者組、年寄り組などと名づけていた。今日の青年団は、そのころの若者組を原型として成熟したものであろう。その発生は、自主的に動機づけられ、きわめて自然に生成してきたものと思われる。ただし、村落共同体の一人前の者として生活していくためには、みんな必ずその過程に組み込まれ、そこを通っていく一つの慣行となっていたようである。
 こうして生成してきた若者の集いも、明治以降は、村落自治の一部を分担するようになる。治安や各種生産労働をはじめ、氏神祭典・盆踊りなどの娯楽的行事に中心的活動を演じることになる。明治中期以後になると、公的社会制度が整備され、明治二二年の町村制度の整備、同二七年の消防組規制の制定、同三九年以降の氏神合祀策、同四二年以降の部落有林野の統一策などを通じて村落共同体は次第に弛み、今までの若者組は、村落の枠組から解放され、急速に行政段階の青年団に再編成されていった。この段階に立ち至っての村青年団は、全体社会の国民教化の一翼を担うものとして位置づけられる。
 明治三九年、文部・内務両省は、荒廃農村の地方改良運動の一環として積極的に青年団の育成指導に着手した。男女青年団に関する訓令、通牒を拾ってみる。

 大正四年一〇月二二日 愛媛県訓令三五号 青年団体指導に関する件
 大正七年五月二一日 愛媛県訓令一六号 青年団体の啓発指導に関する件
 大正一五年一一月一一日 内務・文部両省訓令 女子青年団体の指導誘掖に関する件
 大正一五年一一月二六日 愛媛県訓令九九号 女子青年団体の振興に関する件
     〃       愛媛県学務部長依命通牒 女子青年団体に関する件
 大正一三年、大日本連合青年団として、全国的組織化(大字支部→村

行政単位→郡連合単位→県連合単位→全国単位)された。旧来の共同体集いが、全体社会からの統制を直接的に被ることとなる。
 村段階の青年団は、この統制段階において二面の性格をもつことになる。一面は、伝統的の氏神祭典行事、部落有林野の賦役労働など村部落共同体の残存に仕える部面、他の一面は、町村行政体段階の陸上競技・夜学会を通じて、壮丁準備教育・低度の農業教育等を中心として教育に参加する部面(前項の農業補習学校→青年訓練所→青年学校)を持つに至った。

 昭和初期に入って明示された青年団指導綱領

 昭和五年一一月二二日 文部省訓令一五号 青年教育更張二関スル件

 (一) 青年団指導綱領

一、団体観念ヲ明徴ニシ、質実剛健ノ気風ヲ振作スルコト
一、実生活二適切ナル智能ヲ研磨シ、自主創造勤労愛好ノ精神ヲ作興スルコト
一、体育ヲ奨励シ強健ナル体カト気カノ養成二努ムルコト
一、公共生活ノ真義ヲ体得シ、社会ノ福祉増進二寄与スルコト
一、補習学校並二青年訓練所ノ振興ヲ図リ、青年教育更張ノ実ヲ挙グルコト

 (二) 女子青年団綱領

一、温良貞淑ナル婦徳ト高尚優雅ナル思想ノ涵養二努メ質素勤勉ノ慣習ヲ養成スルコト
一、社会生活ノ真義ヲ知ラシメ、公共奉仕ノ指導誘掖二努ムルコト
一、土曜又八日曜講座ノ開催ヲ奨励シ、生活上必須ナル知識技能ヲ修得セシムルコト
一、体育奨励卜相俟ツテ婦人衛生二関スル知識ヲ附与シ体位ノ向上二留意セシムルコト
一、女子青年学校ノ就学出席ヲ督励シ青年教育更張ノ実ヲ挙グルコト

本村青年団々員数

本村青年団々員数


本村女子青年団々員数

本村女子青年団々員数