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柳谷村誌

一 概説

 学制頒布 

 明治五年八月三日、学制を頒布、学校制度を全国統一的に実施しようとした。その構想は、全国を八大学区に分け、各大学区に一大学を置き、さらに各大学区を三二の中学区に分け、各中学区に一中学を設け、各中学区を二一○の小学区に分け、各小学区に一小学校を置くものであった。
 明治六年、愛媛県が誕生すると、学制の方針に忠実に従うよう啓蒙督励をしてきたが実現は困難であり、県下一二五二小学区のうち、明治六年一一月までに学校設置願を文部省まで出したのは、七七に過ぎなかった。
 そのうち、上浮穴郡内の小学校は一枚であった(第三中学区、一五番小学区で久万町旧郷学校)。
 明治八年、『文部省第三年報』によると、郡内の公立学校は三〇校であり、その中に、久主学校(民家・教員一・生徒二七)、柳井学校(民家・教員一・生徒三二)の名前が出ている。

 教育令の公布 

 明治一二年九月二九日、学制を廃止し、教育令を公布した。明治一九年四月一〇日、小学校令が公布され、義務教育制が確立した(尋常小学校四年義務制)。ただし、地域によっては、三年以内の小学簡易科を設けた。その後、明治二〇年に簡易小学校と改めた。明治二〇年に上浮穴郡内で、尋常小学校一校(久万)、簡易小学校五〇校を数えた。本村関係では、久主村字仲田組、西谷村字古味組、字名荷組、字本村組、柳井川村字本村組、字休場組、黒藤川村字鉢組の七か所に小学校簡易科が設置されていた。
 明治二三年一〇月三日、新「小学校令」が制定され小学校制度が確立した。ここで小学校簡易科が廃止され、修業年限は、尋常小学校は、三年~四年、高等小学校は二年~四年となった。愛媛県では、明治二五年四月から施行されている。
 明治二三年一〇月三〇日「教育に関する勅語」が発布された。ここに至りわが国の教育の基本方針が確立し、その後は、教育勅語が国民教育及び国民道徳の基本とされ、国家の精神的支柱としての役割を果たすことになった。教育勅語の謄本は、各学校に配布され、勅語奉読の式典をあげ、またこれを学校の式日や日常教育の場で児童に徹底させることを指令した。
 明治三三年、小学校令により尋常小学校を四年に統一、なるべく二年の高等科を併置して、将来の義務教育年限の延長に備えた。『明治三五年学事年報』に落出高等小学校が記されている。

 義務制の発足 

 明治四〇年三月二一日小学校令が改正され、尋常小学校六年(義務制)、高等小学校は二年を原則とするが、三年も認めることに改めた。ここに六か年の尋常小学校で初等科を終わり、それ以後は、各種の上級学校へ進学するという、わが国の学校制度の構成が決定し、昭和一六年まで何ら変化することもなく三〇年以上続けられたのである。なお、高等小学校の修業年限は、義務教育の年限延長に伴い、二か年を原則とし、場合によっては、三か年となし得るとされた。中学校の入学資格は、従来の高等小学校二年課程修了者から尋常小学校修了者に改められ、中学校と尋常小学校が直結したため高等小学校は学校体制上傍系的地位になった。尋常小学校では、修身・読書・作文・習字・算術・図画・体操・唱歌の八教科、高等小学校では、修身・読書・作文・習字・算術・地理・歴史・理科・図画・唱歌・体操・裁縫(女子)等の一二教科を教えた。
 大正期の小学校教育  明治末期に引き続き義務教育の徹底のため、児童生徒の出席向上策や、不就学児童生徒の就学費補助も行われるようになった。また、小学校経営に対して教育改造運動が展開された。
 この時期の初等教育界では、大正デモクラシー思想の影響を受けて広汎な教育改造運動が展開された。愛媛県では大正二年以来、自由教育論議が活発に討議され、自由教育を目途とするダルトンプランが、男女師範学校付属小学校を中心に展開され、その風潮は一時初等教育界を風びした。しかし、地方の学校ではこの方法を取り入れても、その効果が充分に上がらないという批判を受けて、大正一五年にこの実践的研究は中止のやむなきに至った。
 明治四〇年に、六年制の義務教育が実施されてから、各市町村においては、義務教育費負担による財政圧迫が甚だしく、県内の町村では、教育費の割合は、町村費総額の三〇パーセントから四〇パーセントを占めていた。
 本村においても、明治四二年に約三〇パーセント、大正元年約四二パーセント、大正六年では約三四パーセントとその割合は極めて高い。
 このような状態の中にあって、国では、大正四年小学校教員俸給国庫支弁に関する議題が議会で可決され、大正六年第三九議会で、市町村立小学校国庫補助法案が可決され、次いで大正七年に、市町村義務教育費国庫負担法を公布するに至った。

 昭和前期の教育 

 昭和一一年の二・二六事件から翌一二年に開始された日華事変を経て、太平洋戦争に至る期間は日本帝国主義の完成を見る時期であった。昭和六年の満洲事変以来、わが国の教育は次第に戦時色が加味されていった。そして、日華事変を契機として、非常時体制下の教育が展開されるようになり、これにともなって教育行政が極めて強化されていった。昭和一二年「国民精神総動員実施要綱」が閣議で決定され、挙国一致、堅忍不抜、尽忠報国を目標とする官民一体の一大国民運動をおこすこととなった。
 昭和一五年には、全国の青少年学徒の代表者を宮城二重橋前広場に集め、天皇が親閲した後「青少年に賜りたる勅語」を公布している。
 昭和一二年に教育審議会が設置された。教育審議会は、国体の本義の徹底を至上の価値とする皇国主義を教育の理念とし、錬成教育の方法をうちだすことによって高度国防体制にみあった教育改革を意図し、初等科教育から高等教育までの全般に検討を加え、ここで決定した答申は順次戦争遂行のための教育制度の上に実施されていった。この時期の教育改革で最も大きな変化が示され、教育全般の改革の基本となったのは初等教育であった。
 昭和一六年三月、「国民学校令」「国民学校令施行規則」が制定され小学校は皇国民育成を目標として国民学校と改称されることになった。国民学校は、初等科と高等科に分かれ、初等科は六年、高等科は二年で義務教育期間を二年延長して、八か年と規定したが、その後戦局の悪化にともないその実施は延期され、ついに実現に至らなかった。

 戦争下の国民学校 

 昭和一六年四月から国民学校は開設された。当時、本村では、久主国民学校、鉢国民学校(初等科のみ)、柳谷第一国民学校、柳谷第二国民学校があった。国民学校は、戦争遂行のための皇国民の錬成を目途に積極的な教科の統合が行われ、国民科(修身・国謡・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体錬科(体操・武道)、芸能科(音楽・習字・図画工作)、実習科(農業・工業・商業・水産)に統括された。学童は、学用品が欠乏し、教材備品が不足するという不自由な学校生活に耐え、ただ「お国のために」の一心で錬成にはげまねばならなかった。
 昭和一六年一二月の太平洋戦争突入後わが国の戦局は次第に悪化の一途をたどらねばならなかった。文部省は、昭和一九年「国民学校教育に関する戦時非常措置に関する件」を通達している。この通達の中には、少年学徒の勤労について述べてあり、食料の増産のための措置としての農繁休業の延期、運動場・荒地の開墾による食料増産について指示している。本村各校の「沿革史」を見ると、運動場を利用してのサツマイモづくりやイナゴの採集などの記録が残っている。また、国民学校高等科生・中等学校以上の各学校では、学徒が戦争体勢遂行のため、各種の軍需工場、食料増産のための農作業などにかり出され(学徒動員)、その間は授業が停止した。
 昭和二〇年に入りアメリカの本土空襲は日ごとにはげしさを増す中で大都市の学童は、戦災から難をまぬがれるため疎開を実施しなければならなかった。学童の疎開は縁故疎開を原則とするが、これができない者は、教師が引率して集団疎開を行った。疎開先は、田舎の神社・寺・学校等であり、終戦まで疎開先での耐乏生活を送らねばならなかった。 学制頒布 

 明治五年八月三日、学制を頒布、学校制度を全国統一的に実施しようとした。その構想は、全国を八大学区に分け、各大学区に一大学を置き、さらに各大学区を三二の中学区に分け、各中学区に一中学を設け、各中学区を二一○の小学区に分け、各小学区に一小学校を置くものであった。
 明治六年、愛媛県が誕生すると、学制の方針に忠実に従うよう啓蒙督励をしてきたが実現は困難であり、県下一二五二小学区のうち、明治六年一一月までに学校設置願を文部省まで出したのは、七七に過ぎなかった。
 そのうち、上浮穴郡内の小学校は一枚であった(第三中学区、一五番小学区で久万町旧郷学校)。
 明治八年、『文部省第三年報』によると、郡内の公立学校は三〇校であり、その中に、久主学校(民家・教員一・生徒二七)、柳井学校(民家・教員一・生徒三二)の名前が出ている。

 教育令の公布 

 明治一二年九月二九日、学制を廃止し、教育令を公布した。明治一九年四月一〇日、小学校令が公布され、義務教育制が確立した(尋常小学校四年義務制)。ただし、地域によっては、三年以内の小学簡易科を設けた。その後、明治二〇年に簡易小学校と改めた。明治二〇年に上浮穴郡内で、尋常小学校一校(久万)、簡易小学校五〇校を数えた。本村関係では、久主村字仲田組、西谷村字古味組、字名荷組、字本村組、柳井川村字本村組、字休場組、黒藤川村字鉢組の七か所に小学校簡易科が設置されていた。
 明治二三年一〇月三日、新「小学校令」が制定され小学校制度が確立した。ここで小学校簡易科が廃止され、修業年限は、尋常小学校は、三年~四年、高等小学校は二年~四年となった。愛媛県では、明治二五年四月から施行されている。
 明治二三年一〇月三〇日「教育に関する勅語」が発布された。ここに至りわが国の教育の基本方針が確立し、その後は、教育勅語が国民教育及び国民道徳の基本とされ、国家の精神的支柱としての役割を果たすことになった。教育勅語の謄本は、各学校に配布され、勅語奉読の式典をあげ、またこれを学校の式日や日常教育の場で児童に徹底させることを指令した。
 明治三三年、小学校令により尋常小学校を四年に統一、なるべく二年の高等科を併置して、将来の義務教育年限の延長に備えた。『明治三五年学事年報』に落出高等小学校が記されている。

 義務制の発足 

 明治四〇年三月二一日小学校令が改正され、尋常小学校六年(義務制)、高等小学校は二年を原則とするが、三年も認めることに改めた。ここに六か年の尋常小学校で初等科を終わり、それ以後は、各種の上級学校へ進学するという、わが国の学校制度の構成が決定し、昭和一六年まで何ら変化することもなく三〇年以上続けられたのである。なお、高等小学校の修業年限は、義務教育の年限延長に伴い、二か年を原則とし、場合によっては、三か年となし得るとされた。中学校の入学資格は、従来の高等小学校二年課程修了者から尋常小学校修了者に改められ、中学校と尋常小学校が直結したため高等小学校は学校体制上傍系的地位になった。尋常小学校では、修身・読書・作文・習字・算術・図画・体操・唱歌の八教科、高等小学校では、修身・読書・作文・習字・算術・地理・歴史・理科・図画・唱歌・体操・裁縫(女子)等の一二教科を教えた。
 大正期の小学校教育  明治末期に引き続き義務教育の徹底のため、児童生徒の出席向上策や、不就学児童生徒の就学費補助も行われるようになった。また、小学校経営に対して教育改造運動が展開された。
 この時期の初等教育界では、大正デモクラシー思想の影響を受けて広汎な教育改造運動が展開された。愛媛県では大正二年以来、自由教育論議が活発に討議され、自由教育を目途とするダルトンプランが、男女師範学校付属小学校を中心に展開され、その風潮は一時初等教育界を風びした。しかし、地方の学校ではこの方法を取り入れても、その効果が充分に上がらないという批判を受けて、大正一五年にこの実践的研究は中止のやむなきに至った。
 明治四〇年に、六年制の義務教育が実施されてから、各市町村においては、義務教育費負担による財政圧迫が甚だしく、県内の町村では、教育費の割合は、町村費総額の三〇パーセントから四〇パーセントを占めていた。
 本村においても、明治四二年に約三〇パーセント、大正元年約四二パーセント、大正六年では約三四パーセントとその割合は極めて高い。
 このような状態の中にあって、国では、大正四年小学校教員俸給国庫支弁に関する議題が議会で可決され、大正六年第三九議会で、市町村立小学校国庫補助法案が可決され、次いで大正七年に、市町村義務教育費国庫負担法を公布するに至った。

 昭和前期の教育 

 昭和一一年の二・二六事件から翌一二年に開始された日華事変を経て、太平洋戦争に至る期間は日本帝国主義の完成を見る時期であった。昭和六年の満洲事変以来、わが国の教育は次第に戦時色が加味されていった。そして、日華事変を契機として、非常時体制下の教育が展開されるようになり、これにともなって教育行政が極めて強化されていった。昭和一二年「国民精神総動員実施要綱」が閣議で決定され、挙国一致、堅忍不抜、尽忠報国を目標とする官民一体の一大国民運動をおこすこととなった。
 昭和一五年には、全国の青少年学徒の代表者を宮城二重橋前広場に集め、天皇が親閲した後「青少年に賜りたる勅語」を公布している。
 昭和一二年に教育審議会が設置された。教育審議会は、国体の本義の徹底を至上の価値とする皇国主義を教育の理念とし、錬成教育の方法をうちだすことによって高度国防体制にみあった教育改革を意図し、初等科教育から高等教育までの全般に検討を加え、ここで決定した答申は順次戦争遂行のための教育制度の上に実施されていった。この時期の教育改革で最も大きな変化が示され、教育全般の改革の基本となったのは初等教育であった。
 昭和一六年三月、「国民学校令」「国民学校令施行規則」が制定され小学校は皇国民育成を目標として国民学校と改称されることになった。国民学校は、初等科と高等科に分かれ、初等科は六年、高等科は二年で義務教育期間を二年延長して、八か年と規定したが、その後戦局の悪化にともないその実施は延期され、ついに実現に至らなかった。

 戦争下の国民学校 

 昭和一六年四月から国民学校は開設された。当時、本村では、久主国民学校、鉢国民学校(初等科のみ)、柳谷第一国民学校、柳谷第二国民学校があった。国民学校は、戦争遂行のための皇国民の錬成を目途に積極的な教科の統合が行われ、国民科(修身・国謡・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体錬科(体操・武道)、芸能科(音楽・習字・図画工作)、実習科(農業・工業・商業・水産)に統括された。学童は、学用品が欠乏し、教材備品が不足するという不自由な学校生活に耐え、ただ「お国のために」の一心で錬成にはげまねばならなかった。
 昭和一六年一二月の太平洋戦争突入後わが国の戦局は次第に悪化の一途をたどらねばならなかった。文部省は、昭和一九年「国民学校教育に関する戦時非常措置に関する件」を通達している。この通達の中には、少年学徒の勤労について述べてあり、食料の増産のための措置としての農繁休業の延期、運動場・荒地の開墾による食料増産について指示している。本村各校の「沿革史」を見ると、運動場を利用してのサツマイモづくりやイナゴの採集などの記録が残っている。また、国民学校高等科生・中等学校以上の各学校では、学徒が戦争体勢遂行のため、各種の軍需工場、食料増産のための農作業などにかり出され(学徒動員)、その間は授業が停止した。
 昭和二〇年に入りアメリカの本土空襲は日ごとにはげしさを増す中で大都市の学童は、戦災から難をまぬがれるため疎開を実施しなければならなかった。学童の疎開は縁故疎開を原則とするが、これができない者は、教師が引率して集団疎開を行った。疎開先は、田舎の神社・寺・学校等であり、終戦まで疎開先での耐乏生活を送らねばならなかった。

村内小学校の変遷

村内小学校の変遷