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柳谷村誌

第一節 学制頒布以前の教育

 江戸時代においては、各藩は、幕府の昌平黌にならって藩校をつくり藩士の教育にあたらせた。しかし、その対象は、統治者階級である武士の子弟に限定され、庶民の子弟は入学できなかった。そこで一般には、私塾や寺子屋教育にまかされていた。幕末ごろ、藩校に庶民の入学も許されるようになると、教育方針に大きな変化がもたらされ、寺子屋は、このころから僻村にまで普及するようになり、庶民教育としての実績をあげた。しかし、寺子屋或は私塾は、庶民の間に自然発生したものであり、その記録はあまり残っていない。
 上浮穴郡では、明治の初めまでに、私塾・寺子屋が二七あったと記録されている(『愛媛教育史』)。
 本村においても、無量寺と土居庄屋屋敷の帳間で寺子屋が開かれたといわれるがさだかではない。寺子屋では、生活に必要な読み・書き・計算の実力を養い、その間に封建道徳を体得することをねらいとした。