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柳谷村誌

(四) 高度流通期(一万円札期=昭和二〇年以降)

 われわれ庶民のくらしを支配する銭のはたらきは、敗戦と共に急変した。今まで、銭は物を従え、人を駆使した。銭関白ぶりであった。しかし敗戦を折目にして、銭は物と共に人に順応してはたらくものとなった。銭の民主化である。社会生活のしくみがすべて民主化するにつれ、銭も民主化した。ものの動き、人のちから、社会の流れに和して、銭ははたらき表情してゆく。
 敗戦とは、およそ空しいものであるはず。でもわが国の敗戦は、たそがれとも夜陰とも運命づけるきざしはなかった。むしろ黎明を告げる警鐘にすら感じられた。
 その黎明を告げる鐘の最初の一打は「農地改革」である。昭和二〇年代、経済復興から経済自立へとつっ走る第一歩である。明治一五(一八八二)年から昭和二〇(一九四五)年に及ぶ六〇年余、流動しつづけた土地の所有ー耕作関係。敗戦前、耕地小作率は柳谷村四五パーセント、中津村三五パーセントを示した。まことに偏った土地集積である。しかし土地改革の鐘の一打で、改革の歩みは速かに、昭和三八(一九六三)年八月一日現在、全耕地の○・二パーセント(全村)の小作率にすぎない変貌ぶりであった。土地の所有については、復活と自立を果たした正午のたたずまいと見るべきであろう。
 昭和三〇年代に入って、経済の安定成長を伴った、完全雇傭の花が開いた。その後半から昭和四〇年代前半にかけて、高度成長の花らん漫のあでやかさを謳歌した。学卒若年者が金の卵と讃えられる昭和元禄を演出したのである。
 われわれ庶民の財布はどんな変わりをしたか。かつて一家の主人が持つ財布は、名ばかりで中味の入っていないものであった。今や家族はめいめい自分の財布を持ち、それぞれの財布は、札と硬貨がひしめいているこのごろである。
 国民所得倍増政策は、生活優先の政策であった。近代化してゆく社会の片隅に泣いた農業と農外諸産業、富国々策の庇護のもとに飽食した大企業と小企業、地域差著しい都市と農山村間、これらの所得の上の、生活の上の格差は是正されていき、国民経済の均衡が保たれて、家族めいめいの財布のふくらみを伴って、発展をつづけていった。
 わが柳谷村では、村行政の主力を、産業構造基盤整備に注がれる。村財政の重点は公共投資に投入されてゆく。生活関連の社会資本整備がめざましく進んでゆく。山肌は削られ、谷々に沿い、家並みのたたずまいにつれ、国道から県道、村道が分れ、集落に農道がひろがり、山深く林道がうねり、セメント・舗装材・鉄材に装備されて、黒地にはえた道々が、つぎつぎに延びてゆく。
 このような生活環境の変貌は、我々の財布のありかたになにを要求したか。急速な産業構造の高度化は、人的資源の高度化を求める。情勢は国民教育期間の倍増(六年から十二年へ、高校進学の準義務化)を示し、家計に占める教育費の比重が増して首位を占めた。これに連動して生活費がかさみゆく。通貨はいよいよ自由に流通し、取引はすべて現金一本化となる。
 ぜに工面の生活設計は、ぜにかせぎに一転した。現金持たずに一ときも暮せないこととなった。一年周期の田畑つくりでは間に合わない。田畑つくりは食べるだけに限り、弁当持ちで現金かせぎに出る。兼業・出稼ぎ・はては町へ転出していき、村の過疎化を結果した。村のうち、村以外のところも、公共投資は村民の現金を稼ぐ職場となる。
 今や銭の需要に対する銭の供給に、なにひとつこれを阻む条件は見つからないかに見える。銭の流通はきわめて自由である。盆暮勘定の歳計のしきたりは、昔の夢と消え去った。今日以後即金主義が定着するだろう。今まで銭のはたらきが、物の質量に大きいかかわりをもっていたが、今後は人の能力の品質が、銭のはたらきを支配するであろう。
 我々柳谷村民は今後、銭との新しい対応が求められることとなろう。地方自治法が施行されてここに三七年、その間の村民生活の外部環境の激変ぶりは、全く驚くばかりである。人類が進化してきた道すじの数千年いや数万年に匹敵するものであろう。今一度、我々の生活の場である柳谷の自然に、謙虚な眼差しを向けて見よう。花咲き鳥歌い、虫すだき四季折々のたたずまいをあらわに見せる、夏緑落(広)葉樹林におおわれたわが村の自然であった。わずか千数百年を出でずして、私たちが敢行した地表改造の現況は、濃蒼一色の針葉樹冠におおわれる。
 かえりみて我ら今、半世紀(五ー六〇年)に及ぶ長きスパン(大径木造成)の予測の中に、銭のはたらきの健全性を求めていく。