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柳谷村誌

(三) 農村匡救期(一〇円札が流通の王座を占める期=昭和はじめから終戦まで)

 明治一〇(一八七七)年の地券設定(地価確定)時点の、わが村における大字別の官有民有比、既開拓耕地率などを見ると、次のとおりである。

        (図表 柳谷村における大字別の官有民有比・既開拓耕地率 参照)

 柳井川、西谷合わせて、官有地が全地積の四〇・五パーセントであること、耕地わずか一〇パーセントである。これは後年における、官有地払下げによる広大林地地主の出現、あわせて林地(雑木山・草山)の耕地化による株小作農家の発生を予測させる。久主(中津)圏域は、幕藩末期すでに開発開田率が進んでいた。特に立地条件に恵まれて開田がすすみ、地券設定時三七町一反四畝歩(全耕地の八パーセント)に及ぶ開発を見せている。したがって後年、特用作物商品化期に及んで、それに応ずる耕地増反の期待はうすい。さらに十余年を経ての予土横断道路の開通は、この地域の交通地位を高め、近代化の歩度を速めたものと思われる。農家の田・畑保有略平均しており、米作りを軸とする家計運用であった。
 開拓が進み、中規模の田作り主軸の圏域では、家計の傾きを支えてくれるのは、田地の担保化であった。ところが、ひとたび圏域の一角の家計が傾斜すると、頼母子の取足、保証債務の圧力(判かずき)の圧力が連動して、圏域の田地は、芋づる式に債権者に譲渡される。自作農家は、譲渡田地の小作農家に役割変えをする。久主圏域では頼母子期の末ごろ、柳井川三丁家からの債務担保に田地を譲渡、小作農家として年々一五二俵の小作料を納めていたのである。
 切替畑を耕作する西谷・柳井川圏域、水田耕作する中津圏域、自作・小作の別なく、乏しい銭の流れのために、借銭はかさんで昭和初期を迎えた。この財力虚弱のわが村の農家に、致命的余病併発させたのは、昭和農業恐慌である。かぼそい農家が作った農産物価格の大暴落である。村内の深刻な不況を、図表 昭和初期農業恐慌(昭三~昭九)時の不況指数が物語っている。
昭和一二(一九三七)年四月、村民各戸の累積負債(柳井川・西谷両大字合計を示す。大字中津分不詳)
 全戸数 六〇四戸 負債戸数四七九戸(全戸数の七九・三パーセント)
負債総額 二九万二一九三円(今日の一五億七六六七万余円に相当)
    内訳 個人よりの借入 四九・九パーセント 利率月二分程度
       頼母子     二六・五〃
       信用組合    一九・一〃
       銀 行      四・五〃
    一戸当たり負債額 六一〇円(今日の三二九万一千余円に相当)
 全戸数の八割が負債を背負い、しかも負債額の半分は、月二分の利を生んで、雪だるまさながらに大きくなる、個人からの借入である。全戸数を破産の悲惨に追い込む危機を孕んでいた。もはや行政の措置と救済によらない限り、山村は破綻そして没落をまぬかれない急迫した事態である。ここに至って、農村匡救の施策が打ち出されている。農村匡救の施策の主軸として功を奏した「負債整理」と「経済更生」の計画と実践を見よう。

 負債整理 

 昭和八(一九三三)年三月二九日、農村負債整理組合法公布施行、同年七月三一日、市町村負債整理委員会令が公布された。旧柳谷中津両村にそれぞれ○○村負債整理委員会が、両村共各部落にそれぞれ○○負債整理組合が組織され、それぞれ負債整理の活動に入る。負債を負う各戸は、居住地区の負債整理組合員となって、組合の斡旋によって自己負債の整理に当たるのである。それぞれの組合は、所属組合員の申出に応じて、どんな斡旋業務を履行したかを見てゆく。第一に組合は、組合員の負債償還計画と経済更生計画とを樹立する。第二に組合員と債権者との負債金額・利率・償還期間・償還方法そのほかの条件の緩和についての協定斡旋をする。’第三に組合員に対し、負債整理資金の貸付などの業務を行った。今まで農山村の農家にとって、この地元負債整理組合の実践のように、親身で、地道で、着実な救済措置を受けたことはなかった。したがって、組合の斡旋や勧奨に対する組合員の反応も真摯であり、負債整理業務活動は、円滑順調に運んだ。次々とそれぞれの負債は償還満了されていったのであった。もし組合員と債権者間の斡旋が不調である場合は、村負債整理委員会は、各負債整理組合からの請求に応じて、斡旋委員を指定して、請求負債整理組合が行ったと同様の斡旋を、担当履行せしめた。こうして行政主管の負債整理事業の履行に拠って、わが村の農家に累積凝滞していた負債は、つぎつぎ償却されて、ほとんど大部分の農家は、抵当権設定していた耕地の抵当権消滅を為し得て、健全な自作農家への復活を全うすることができたのである。

 農家金融の近代化 

 負債整理組合の斡旋事業に合わせて、農村金融の近代化措置が講ぜられた。第一は高利率重圧を避けるため、個人からの借入れを止めること。第二は、共助金融とは名ばかりで財の偏在を招いた、頼母子講を止め、今後はその創設(頼母子はじめ)をしないこと。第三に、今後預入・貸付を産業組合に一本化すること。以上三つの施策の、しょうようと拡充とが、行政によって推進された。こうして農家金融は一歩一歩、公共性安定化の方向へと、着実に素地つくりが行われ、それが今日の「農協主導の農家経営」へと結実していった。

経済更生計画とその実践 

 死に瀕する農家経済の活性化再建は、古傷治療(負債整理)と同時に、体力増強(産業構造改善)が必要である。負債整理を当面する消極面と見ると、産業構造改善は、家計の弾性を築く積極施策である。わが村は、昭和一二(一九三七)年四月、村行政と農家各層の総力を結集して、「柳谷村経済更生計画」を策定した。そしてその実践を、各小組単位の「実行組合」の実践推進にゆだねた。計画項目は、第一民風作興、第二生活改善、第三土地利用ノ合理化、第四生産計画、第五販売統制、第六金融改善、第七共同購入、第八道路網完成、第九村有林施業、第一〇教育の一〇部門にわたる。各部門とも計画目標・実行項目・実行目標を明らかにし、現況を確認し、達成方法を吟味確立、達成年限、主動機関とその施設など、緻密周到な計画であった。
 暖衣して飽食する者には、虚弱に陥る運命あり。弊衣して飢渇した者の啖うものは、すべてエネルギーとなる。谷底に転落した村民は、這いあがるよろこびに溢れ、更生する村民のあけくれは、再生する歓喜に充ちていた。
 こうした積極と弾性の実践のつみ重ねによって、ひん死の村民は起死回生し得た。家計の再建を果たした村民は、昭和一〇年代、健兵健民として、戦時体制下の役割分担に参加したのである。

柳谷村における大字別の官有民有比・既開拓耕地率

柳谷村における大字別の官有民有比・既開拓耕地率


昭和初期農業恐慌(昭三~昭九)時の不況指数

昭和初期農業恐慌(昭三~昭九)時の不況指数