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柳谷村誌

(二) 第二期 頼母子期(一〇〇銭でやっと一円のころ=明治中期から大正末期ごろまで)

 商品貨幣経済のうごきは、幕藩のころからあったものの、明治に入っても商品化財貨の生産性の低い我々の村では、その進歩は見られなかった。明治中期はじめから大正末期に亘る半世紀は、遅々とした経済の歩みであった。この期における山村たるわが村の困窮の跡をかえりみる。
 明治新政府以来、わが国の中央政府がとった国策は、富国強兵策であった。おのずから打ち出される施策は、都市化、工業化が重点となる。明治元(一八六八)年の発券高二四○○万円、昭和元(一九二六)年にはそれが二〇億円と、五八年間に一万倍近く増加している。一応経済力の躍進を物語っている。しかしこの通貨、国内を万遍に流れはしない。国策の命ずるところ、都市の工業化に重点投入されて、流通してゆくのが当然の動向である。加えて通貨を吸引する生産力は、極めて低かった我が山村である。自力で通貨を吸引するだけの経済活力が身につかない限り、ぜには我が村に入ってはこない。月間僅かに流れ込んだ銭は、村に留って流れるいとまもなく、月末には地租として、中央へ吸い上げられていく。村民のくらしは、銭札見て微笑むことのない、汗水流して仕事するだけの日々であった。しかし、一歩先んじて近代化してゆく都市の、近代化の余波は、のろいながらも山村へよせてくる。個人から家庭へ、さらに地域へと拡がってゆく。この山村への浸み込みは、ぜにを仲立とする取引の形で訪れる。山村農家も今までのように、「あれば使うが、」の家計運びではすまされなくなってきた。なければ工面せよと迫られることとなる。「銭工面」が「山村農家家計」の重心となってきたのである。
 山村に銭を呼び込む生産活力は育っていない。昔から作ってきた楮を原料にして、夜なべまでして紙漉きしても、手漉き紙を紙問屋に持って行っても、日役になるような値では買うてもらえない。重い足どりで帰ってくるのである。
 みんな紙漉くのを「貧乏紙漉き=貧乏神好き」と捨ぜりふした。生糸がアメリカへ売れるという。みんな常畑に桑植えて、春蚕から秋蚕、晩秋蚕から晩々秋蚕まで、年四回も蚕飼うてみた。このころ、学校から戻んた予供は、桑摘みと紙たたきさせられる、大事な荒働手であった。養蚕のゆく手はどうだったか。これも生糸相場にふりまわされて。あてのはずれた値でしか買うてもらえず、歳々、ふところの冷たい年の瀬であった。
 山村の農家では、銭工面に苦しんだ。どうしたら銭がまわる世の中に変るか……と。頼ほ子は銭をまわす生活の知恵であったとも言えよう。普から慣わしにしてきた講を、研ぎすました農家の名案とも自賛できようか。村内に頼母子がはやり出した。頼母子は、頼母子をはじめてもらう親が、自分が必要とする銭高で規模が定まる。まず規約で、口数と一口掛金が定められる。小口頼母子は、身内や小組内で、大型頼母子は、川下四か村ではじめた有志頼母子のように、広域でつくられた。頼母子講は、代表者としての総代(金主とも呼び債健権者に相当する。)のもと規約で運営される。参加した講衆の次番取足者は、抽せん・入札で定める。大抵入札で取足高を切下げた次回取足を受ける者は、土地を担保にし、連帯保証人を立てて、取足の給付を受ける。これで銭工面ができた訳だが、取足者が受けた取足高のそれ以後の掛送りは、一割余りの利が重なり、取足者には重荷となり、借銭の因となる。子と呼ばれる未給付の講衆は、回が進むにつれて掛け金は減り、戻り金をもらうようになる。極めて有利な利殖法であり、財産づくりである(子は親に育てられて太り、親は子を太らせてやせてゆく。頼母子とはうまく名づけたものである)。
 公的金融が整備されていなかったこの期としては、頼母子は唯一の庶民相互金融組織と見慣らされていた。だが今日のサラキンに似つかわしく、取足者は、家計や景況のあおりを受けると、忽ち自殺や一家心中のような混乱・悲劇の主となる。更におそるべき二次悲劇は、頼母子における保証債務(判かずき)によって、一むら中が芋づる式に身代限りして貧境に堕ちていった事実である。
 この頼母子期に特筆すべき出来ごとがある。わが村の農家が地主・小作の二極分解を起したことである。もともと小作という慣わしは幕藩のころからあった。それは制度としては認められず、一部の土豪(その地域の勢力家)が、質入土地を耕作させ、賦役を小作代とする抜けならわしであった。明治以前は、領主・百姓衆の二極は確立していたと言えよう。明治初期新政府は、地券認定を断行して、百姓衆に土地所有を認定した。と同時に、土地の抵当・質入・譲渡を自由化した。商品貨幣経済未成熟の山村では、通貨の機能を土地が肩代りする体制が与えられたのである。いくばくも経ずして、土地の流れがうなりを立てはじめた。土地を集める者、土地を失う者、土地を持ちつづける者、三つの型の混り合う村に、はげしく変わっていった。土地を集める者と失った者との間に、小作料という新しい綱が渡り合い、同一の土地の所得は、地租を徴収する政府そして、小作料を収納する地主、耕作物の一部で家計を立てる耕作小作者の三極に分配されることになっていったのである。
 数千年前、植物からヒントを示されて、耕種という行為を体得し、農民の歴史を歩んで来た人々。今、「所有」という研いだ刃物で、「所有するが耕作しない地主」と「所有しないが耕作する小作農民」とに分断された。共々に進化し向上してきたこの大地を、共用できる人類の社会資本と見るならば、二極分解した「所有地主と耕作小作人」の関係を、大地に関わる対立者と意義づけをするよりも、共有大地の効率化を目ざす役割分担と、立場づけをしてもよいのではなかろうか。以下二極分解のいきさつを見よう。
 村社会のはたらきは、人間のからだのはたらきと同じである。循環が不整調になると、忽ちに炎症疾病をおこす。必要量の銭が、財物と用役とに伴って流れないと、一挙に社会は弱体化する。銭を呼ぶ財物と用役(事業)の乏しいわが村に銭は入らず流れない。でも社会が活き続ける限り、取引と信用は欠かせない。その取引と信用の保証を、銭がやるべきしくみの中で、銭がその責めをやりおおせないとすれば、何かがその代行をつとめねばならない。わが村のこの期約半世紀の生活においては、「所有と移動」が認められた「土地」のみが、「社会活動の活性素」となったのである。
 中央政府はこの理を活かした。「主軸税収地租」は金納とし、地価据置・地租税率引下の諸施策をとっている。これは大地主の培養につながる。一面、所有土地を耕作して、食料作物や特用作物(楮・麻・桑・茶・のちにはミツマタなど)を収得する自作農家にとっても、必要な銭を工面するには、自己所有の土地が、金の呼入れの力添えになってくれる。
 個人からの借入、頼母子の取足、叺入りの塩代決済にも、土地がひとり芝居でも演出するように、自在に力を示すようになった。黒川が永い年月かけて拵えてくれた、開いた扇子状の広い奥地。地目は雑木山、草山、藪など何であれ、地積はそれぞれ阿畝歩いや何十歩そこそこであれ、夥だしい筆数の奥地の山野。開こんすれば伐替畑となる地味肥沃の土地。わが村の農家にとって、取引のまとまり易い「わがもの」であった。こうして自作農家は、つぎつぎにわが土地を譲り渡し、これを借入れて開こん耕作する小作農家に「役割変り」し、銭代わりに土地を譲り受けた農家は、所有した土地を経営して生活する地主に「役割変わり」したのである。
 中央政府は、この両者間の一本綱小作料に、物納制を認めた。その料率に何の制限をも加えず、両者の全くの自由契約に任せていた。金納する地租は上らず、物納する小作料は物価指数につれて値上りする。寄生地主となった農家の「土地集積の底力」は、ますます強大になっていった。明治一五(一八八二)年地券制度確立して、明治一七~一九(一八八四~八六)年一部修正、明治二三(一八九〇)年一月、特別地価修正一筆限帳から窺うと、わずか六~七年にして、数百筆、数十町歩からの土地が動いて、土地集積が実現しているのである。一人一人の取引にはなんら無理はない。当事者間の合意で話はまとまっている。土地集積をなだれ式に実現させたものは、当時の中央政府がとった、地主保護施策であると見るべきであろう。明治初期、地租改正時にうち出した「地方官心得帳」第一二章によると、総収穫高のうち、地租及び村入費三四パーセント、地主取前三四パーセント、小作者取前一七パーセント、稲籾肥料代一五パーセントという配分関係になっている。広大な林地を集積し、大地主化した農家は、地域における耕地経営の中核的役割を担うに至ったのである。
 わが村における大地主の耕地経営、すなわち小作経営のかたちは、他の村々で行われたものとちがっている。他の村々では部分小作がほとんどであった。わが村では一括小作(株小作)が大部分のようである。地主は、田畑をはじめ、宅地、山林まで一括貸与した。一種の特殊小作制度である。
 この株小作形態は、膨大に広い面積の未こん林地と、豊かな農家労働力を保有していた、わが村の耕地経営策としては、最も当を得たものと思われる。やがて、増反された焼畑、切枠畑によって、ミツマタの好況期に金もうけした小作農家は、耕地を地主から買受けたり、貯蓄を強化している。昭和二二(一九四七)年の農地改革においては、既耕作田畑をはじめ、宅地、山林まで譲受けて、健全自作農家経営の生産活動にふさわしい条件整備を全うしたのである。