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柳谷村誌

(五) 運搬具

 運搬具は、「はこぶはたらき」の基盤である「みち」の様相に従って考案され、変化してゆく。わが村の人々の運搬具使用のすがたを、「みち」のすがたの変化に沿って見てゆく。

 人 力 

 人力は生あるかぎり、機械系のものにくらべて絶えることのない、耐久運搬具である。しかもからだのすべての部分を組み合わせ、使い分けてゆく巧みさは、永い進化のみちすじで積み重ね蓄えてきた試行錯誤の成果であろう。抱く・かかえる・提げる・吊る・になう・引く・押す・かつぐ・負う等々、はこぶ対象の形状、重量、距離などに応じて、自由に運搬の目的を果たすことができる。しかも「みち」は徒歩できる道幅だけで充分で、山・坂・谷渉りなども可能である。運搬の効率を問わない限りは、どの運搬具よりも最も安定しており、一般的である。とくに山村の生業では、大部分を占める運搬具である。

人力を補助する運搬具

 (イ)負い縄と負いこ この二つは、最も軽便で使い勝手のよい補助運搬具と言えよう。両者とも直接人力軽減するとは言えないが、運搬物をまとめることと、体力を集中できることによって、運搬の重量と距離を増すことができるので、間接人力軽減する運搬具である。リュツクサックやショルダーなどは、負い縄、負いこの現代化した変種と考えられる。(ロ)てんころ 「てんころ」は長丈の木材の切口に打込んで引張る鉄製の運搬具である。運搬物の重量そのものは、大地が支持するから、水平的に移動させる力だけ人力が分担する。「みち」は傾斜勾配があるほど、重量、距離の上で効率が上がる。(ハ)木うま「二本(枚)の丸太(厚板)に横桟(四~五本)を固定して枠組みした運搬具。それに荷物をしばりつけて引っぱって運ぶ。てんころの場合より摩擦面が少ないから、重量、距離で省力ができる。(ニ)天びん棒 身体や地面に直接触れることが好ましくない物(例えば下肥など)を運ぶには、運搬物を前後に等分して、天びん棒の両端に吊して肩でになう方法である。荷物が宙に浮いているから重さは一ぱいからだにかかり、荷物の丈が長くなるから、みちの事情が負う場合よりも注意がいる。(ホ)猫ぐるま くるまの発明(点の運動を線によらず円によって三倍余の効率をあげる。)は、人類のすばらしい傑作である。運搬具としての車の活用は一輪車で、人力で押して運搬の効果をあげる。はじめは大木を横に切って輪形をつくり、中心に穴を穿って心捧を通して回転させた。次々と資材が開発され、今日はゴムタイヤ、鉄板車体のものに改良されている。道幅はごく狭くてよく、山村の農作業での助力は大きい。(ヘ)大八車 車輪を両輪にした最初の創作車で、車輪の外周を鉄板で獲って磨耗を少なくしており、ほかはほとんど木製である。近代以前からあり、かなりの重量の荷物の運搬に適している。今日のリヤカーは、ゴムタイヤ・鉄材で枠組みした高級大八車に相当する。人力車は専ら客人を乗せて引く、文字どおりの「人力乗用車」である。

 畜 力

 重量・距離・速度の上から、人力の代行具として考えられたのは畜力である。牛は速度の上で馬に劣る(駄馬)が、歩行安定という点で優っている・両者共、運搬物を荷鞍の左右に等分してしぼりつけて運ぶ。幕藩のころからごく最近迄、畜力とくに駄馬は、わが村での唯一の運搬の王者であった。だから牛馬に家族の一員に等しい情をかけており、博労・馬方・駄賃などのことばが、「自動車以前」のわが村の面影を偲ばせ、ほのぼのとした追憶に誘ってくれる(本編 つち―草地―役畜期参照)。

 馬 車 

 明治二五年、予土横断道路が開通すると、運搬の革命―四輪車の出現を見る。運搬の様相は、駄馬と馬車連繋の夜明けを迎える。馬車は、四つの車輪の外周をそれぞれ鉄板で覆い、その他はほとんど木製で枠組みした四輪車である。前二輪は差動できるように仕組まれて、道路の曲折に適応でき、車の安定を保っている。
 荷馬車は車体が荷台で占められ、長さニメートルぐらい。客馬車は、屋根つきの客箱となっており、一台に四~五人は乗せられる。道路開通と同時に、落出の松田本館が、新道路沿道屈指の大問屋の役割を担った。駄馬で松田本館に集められた柳井川・西谷の産物は、荷馬車で久万町へ、久万から久万索道で森松へとリレーされていた。客馬車は落出~久万間を「パパッー」とラッパを鳴らし、「パカパカ」と馬の蹄の音高く威勢よく走っていた。

 自転車 

 両輪を左右に取付けて、加えられた人力を二等分するのが大八車やリヤカーで、両輪を前後に取付けて、加えた人力を後輪に独占させ、その占有した力の一部を前輪に分配(押し出す力の形で)させて、両輪を共通にはたらかせる(車上の人体を前方へはこぶ)しくみが自転車である。運搬物の重量は、車の自重と車上の人体(人力供給者)の体重の合計で一定である。だからはこぶはたらきのねらいは、速さと道のりである。
 車輪が前後の車は、車輪が左右の車にくらべて、常に不安定である。さきに触れた合計重量のものの重心を保たなければ忽ち転倒する。したがって、重心をとる均衡と、前進との一致のために、かなり広い道路が必要となる。
 わが村に自転車が入ってきたのは、明治四二~三年ごろで、予土横断道路が開通してから、二〇年ちかくもたってからである。

自動車

運搬というはたらきは、運搬具の能力の具体化である。したがってそのはたらきは能力の減耗を伴うから、はたらきをつづけるためには、能力の存続が必要である。運搬具は、それぞれの能力(運搬エネルギー)の持続を、物質の補給に求める。人力・畜力は食事に、人力補助運搬具は、構成資材の補足・補修に依存している。
 経済社会が進み、人々の生活需要が増加するにつれて、諸種の運搬構造は、極度に大量化・高速化・一般化を強いられてきた。この運搬革命とも言うべき社会課題に応えたものが、実に「自動車」である。
 では自動車生誕と成長の経過を見よう。まず運搬エネルギーの補給持続の課題は、内燃機関の発明に連動して、液体化石燃料の点在(ガソリンスタンド)へと考えを進めて、一挙に解決した。つぎに、ゴム資材・鉄材・化学合材を材料としたプレス技術は、運搬具「自動車」の車体構造を、意のままの自由自在なものにすることに成功した。更に、エンジン構造の精密高度化は、液体燃料の気化起爆力を強大にし、金属材の薄板化による自重軽量化と相侯って、連搬機能の高速化を全うしたのである。今や自動車は、運輸社会の寵児であり、王者である。土木技術の高度化が、自動車社会の長壽化を保証するかに思われる。
 しかしこの高級運搬共も、わが山村にその利用が普及するまでには、永い月日がかかった。明治二十四年に予土横断道路が開通はしたが、落出の渡船連絡は、大正一〇年落出吊橋がかかるまで、三〇年間つづいた。この吊橋がかかってやっと、松山や高知から民間自動車会社の乗用車が、連けいして走りはじめた。一日一便にはじまり、漸次増便したが、沿道の小学校では、定期便が往き来する度に、児童が勉強やめて沿道へ走り出て、かん声をあげていた。物が移動する速さは、「歩く速さ」が常識で、「走る速さ」への文明到来は、山の子供たちを驚かせるものであった。この定期乗用車便の通いにつれて、トラック便もぼつぼつ走りはじめた。「オチデ」とボデーに大書したトラックが一台だけ、ずいぶん永く走っていた。一四年たって昭和一〇年、落出吊橋はコンクリートの永久橋に架け替えられた。
 ここで自動車運搬は、本格的に普及していった。同年七月二一日、国鉄バスが松山佐川間全通した。「六甲型」から「扶桑型」へと車種は大型化し、「急行便」もデビューして、「予土線」の線名も付けられ、標準輸送コースとなる。
 昭和二五年四月一〇日、国鉄バス落出古味線が開通し、いよいよわが村に、「モータリゼーション エージ」の到来を予告するに至った。
 降って今日、道路は村のすみずみ・はしばしまで伸びており、渓谷沿いの木の間がくれに、蒼空の高原に、いろとりどりのくるまくるまが、ひかり時代のシンボルのように走りつづける。

 ロープウェー 

 傾斜した地面に、道路網をつくることはできない。傾斜面という地形事情を活かした運搬具がある。向かいの山からこちらの道へ。途中にさえぎるものがなければ、空中にワイヤロープを張り渡して、荷物を卸ろし揚げするやり方である。材木やミツマタ束(以前)などの荒物を、道まで運び出すのに速くて都合がよい。傾斜地形の山村独特の運搬具である。ちかごろは発動機を「通い綱」に連結して能率をあげており、さらに低い山肌から高い道路まで、逆揚げして運搬効果を示している。