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柳谷村誌

第五節 外地

 海外移住 

 地球上でわが国の裏側にある土地、それは南米大陸である。広大な土地のこの大陸は、永くヨーロッパの植民地となっていた。その後独立国として立国したが、広い土地を開拓してゆく農業立国の途は、他大陸の先進地からの移住による、農業技術の導入に俟たねばならなかった。
 明治以降、南米諸国からの要請に応えて、これらの国々に移住した日系第一世は、二五万人に達した。そしてかれらが保有経営する耕地は約六〇〇万ヘクタールに近く、自国の農用地の広さを遥かにこえているといわれる。かれら移住者の二世、三世を含める日系移住者が、それぞれの移住国に対する貢献度は、実に大きいものとなっている。
 この実情に立ってわが国では、国際協力事業団(日本海外移住振興株式会社→海外移住事業団→国際協力事業団と次々に改組)が、開発途上国に対する幅広い協力事業を進めてきた。わが国政府においても、この事業団の主要活動の一つである海外移住事業に対して、応募実績を挙げ得るよう、協力をつづけている。
 住みなれた土地を離れて、新しい土地に移ることには、大きい不安がある。それぞれがもつ事情も伴い、その不安を拭い去るには、大きい決断がいる。募集のすすめから決断までには、時日がかかる。近親の理解、各方面からの助言も重ねられていった。あれこれと数々の振れを経て、わが村においても一四家族九二名の者が移住を決断した。
 移住する世帯は、それぞれ渡航前融資を受けて、諸手続、諸処理を完結し、村長はじめ村民からの真情溢れる壮行会を受け、次のように隊を編成、次々に神戸港から移住国に向って出発した(図表 昭和30年代柳谷村海外移住者名簿 参照)。
  第一隊 昭和三一年七月一五日 大西泰彦家族 四名
  第二隊 昭和三四年七月二一日 安藤定以下七家族四七名
  第三隊 昭和三五年五月 二日 丸山環以下五家族三六名
  第四隊 昭和三五年八月一七日 河田福良家族五名
 以上の移住者は、それぞれの移住国に定着安定し、受け入れ国の発展のために、雄々しく活躍をつづけている。

昭和30年代柳谷村海外移住者名簿 1

昭和30年代柳谷村海外移住者名簿 1


昭和30年代柳谷村海外移住者名簿 2

昭和30年代柳谷村海外移住者名簿 2


昭和30年代柳谷村海外移住者名簿 3

昭和30年代柳谷村海外移住者名簿 3


昭和30年代柳谷村海外移住者名簿 4

昭和30年代柳谷村海外移住者名簿 4