データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

柳谷村誌

第四節 草地

 人類はその永い進化の道すじで、ほかの生命あるものとの深いかかわりをもってきた。それは、闘争とか支配と服従とかいう対立関係ばかりではない。たがいに扶け合う共栄関係をも永らえてきたのである。草食動物の家畜化は、その最も熟成したものの一つであろう。我々も本来草食動物である。草食して自分の肉体をつくりあげる。家畜たちと共通する生命保持のしかたであってみれば、それぞれのたべものについての競いはあっても、相手の肉体を餌食にする必要はないはずと思われる。それが本来野生だった草食動物だったものを家畜として馴らしてきた拠りどころであろう。
 わが村の地肌には、草場・草原・草山は広かった。明治九(一八七六)年、地券設定後の草山は、西谷村一九九二・九四ヘクタール、柳井川村六一・八ヘクタール、久主村三七・二一ヘクタール、鉢・稲村地区(推定)二二・六九ヘクタールで、合計約二一一四ヘクタールとなり、全村総面積の略二七パーセントを占める広さであった。したがって、遠く庄屋制のころから、住居の屋根葺きをはじめ、家畜の飼料、田畑の肥草の整のいに事欠かなかった。そこで家畜を飼うならわしは古くから続いている。ただ社会経済生活の変化に伴って、家畜の種類や頭数に動きはあった。以下経済社会の動きにそって、家畜飼育の跡を尋ねる。

 役畜期 

 この期は遠く庄屋期以前から、明治初期に及んでいる。家畜を飼う目標は、家業に対する家畜の役割を需めるものである。人や物資の運搬に家畜の役力を利用した。だから負担力と共に、脚の歩度が速いことが好まれて、ほとんどの農家は馬を飼っていた。牛の頭数は旧村中で数頭で、馬は農家一戸一頭を、あるいは二頭も飼っている。このころの各員家は、馬を家族の一員として愛護し、厩は居宅と同棟で、家の入口近くに厩屋をつくっていた。
 寛保元(一七四一)年ごろ、わが村の農家戸数四五五戸(旧柳井川村一三八戸・旧西谷村一六三戸・旧久主村九九戸・旧鉢・稲村地区推定五五戸)で、飼育戸数のほとんどは馬で一七〇頭、和牛は三〇頭ほどであったようだ。飼育農家では、わが家の役用のほか駄賃持ちとなって、駄賃稼ぎに出働いた。日暮れてわが家へ戻ると、まず妻が沸かして待っていたお湯をたらいにとり、馬の背の汗を、馬の足の泥を洗って拭いてやる。この馬子の思いやりを、遠く山畑つくりのころから、近くモータリーゼーション前夜までつづいた、山村のゆかしい心づかいの遺産として語りつぎたい一こまである。当時各農家の牛馬の売買のせわをする博労もいた。売り買いの話しがついて、農家の庭先で一同円形をつくり、シャンシャンと手打ちし合ったはしゃぎや、やがて博労に曳かれてゆく、飼い馴れた牛や馬を見送る家族の眼底に光る涙もまた、この期のあたたかい語り草として残したい。
 馬が唯一つの重要な運搬手段であったこの期には、馬に関する業を営む者の取締りはきびしかった。牛馬の売買を業とする「博労」の鑑札は、殊のほかやかましかった。明治新政府による切替えについて、明治五(一八七二)年二月一日に、「今まで民部省から渡していた牛馬売買鑑札は、今後『勧農察』(今日の行政監察局か)に於て、新しく改正して交付する。」と、郡役人を通じ大蔵省から達示している。また駄賃持(馬方)も、馬さえおれば誰でもやれる職ではなかった。きちんと手続して「駄賃持札」の交付を受けなければならなかった。寛政一〇(一七九八)年二月五日に、『駄賃持札』は、番所(今の警察関係役所)で引替えること。」とお触れが出ている。今日の運転免許証と全く同じであった。つぎに、駄賃については、大豆(一俵)や楮(一〇貫)などの駄賃は、年々お上から決められる。文化五(一八〇八)年一一月七日のお触れ書に、「今年はいろいろ荷物も多いから、大豆駄賃は去年より二歩値上げする。」とか、天保六(一八三五)年一一月二〇日のお触れ書に「今年は、久主・柳井川両村から上黒岩村までの楮駄賃一文五歩に云々。」とある。又元治元(一八六四)年一一月二三日のお触れ書に「大豆駄賃―お城下松山まで―一俵一一文と定める。」とある。米の値段が年によって倍になったり、一〇倍に暴騰したりする時期だから、はっきり比較はできにくいが、駄賃一一文を平年作の年のお米一升ぐらいの値と考えよう。おわりに、馬の荷鞍についてのきびしいお達し記録をのべよう。天保一四(一八四三)年九月五日のお触れ書。「荷鞍は郡部では日用品で、丈夫なことを第一として拵えるものである。このごろ、駄賃持たちぜいたくになって、馬の鼻皮や腹当てをはじめ、美しいばかりで丈夫でないものを使っている。殊に、丈夫でなく高値の真鍮金具を荷鞍に張りつけて、ピカピカさせている。このごろ、難儀人まで真似てぜいたくになり、うちの工面(家計のこと)が悪くなっていると開く。今後荷鞍に
真鍬金具を張りつけることを差し留める。」と。勤倹出精―稼げ使うなの施策のご治世が考えられる相であろう。

 畜産化期 

 明治新政がだんだん浸透して、経済社会は近代化していった。家畜の飼育もまた、大きく変貌して、その目標が一転したのである。その一つは明治以降の開田増反である。水稲耕作には、田地の耘耕が欠かせない。山村の棚田耕耘には牛耕が適当である。農家の畜種は、馬から牛に一変した。その二は食生活の高度化である。肉食の導入である。前の期迄培われた家族の一員に似せた親近感は散失した。家畜は貨幣経済の重要な要素として商品化した。犂耕役務を兼ねて求める「肥育目標」へと、大きい様変わりを敢てしたのである。その三は、畜種によって課する「用役の分化」である。牛に厩舎を奪われた馬のうち、「駄力優秀馬」のみ、「遠距離運搬馬」の座を守った。遠距離問屋間をつなぐ「専属駄馬」の役割を担当したのである。明治二五(一八九二)年、予土横断道路(今日の国道三三号線)完工を転機として、馬の背は、関奥と落出をかたく結んだ。各戸から人の背・牛の背による小まわしで集った、古味・大成・本谷の各問屋取次の産物は、連日一五頭に余る馬の背により、落出松田運送店(予土街道屈指の運送店)に荷卸しされていた。松田で馬子たちが昼飯(一食一五銭)食う間、落出河原の清流に脚を冷やしつつ、背負ってきた「ほご」の「はめ」をたしなむ馬たちの尻尾の笑みと、往き帰りする馬の首に吊した鈴の音は、平和な山里に和む絵巻であった。
 ゆたかな草生地に恵まれたわが村。牛の肥育熱はさかんになってゆく。博労専業者もおおぜいになった。牛を曳いてゆく風景も見慣れて来、家々の庭先での取引風景も活気を見せてきた。畜産組合も生れた。家畜市場も常設され、定期に大市も持たれるようになった。落出の家畜市場である。国道筋野尻市場と並ぶ有名な大市で、里の大博労が子牛をたくさん曳いてきて、豊かなかいばで太った肥育牛と取引をしていた。この里へ曳かれていく牛を「野上げ牛」と呼んでいた。この畜産化期におけるわが村の、牛馬の飼育のうごきを見よう。

             (図表 畜産化期における牛馬飼育数のうごき 参照)

 近年、中津西村でたびたび品評会が開かれ、優良和牛の育成奨励につとめてきた。なお畜産の振興は、畜産組合等の自主的活動と共に、村行政としては、柳谷村畜産振興事業に関する条例(昭和四八―一二―二一条例第一五号)の制定施行によって、畜産経営の近代化合理化の促進に力を注いでいる。

 大規模草地開発畜産団地下期

 高知県境地帯(東津野村・梼原町)につづく町村境地帯(野村町・美川村・小田町)は、西日本で著名の一大カルスト地帯である。しかしこの地はいずれの海岸地帯からも遠く隔った、交通地位の低い四国山脈の支脈で、標高一〇〇〇メートルから一五〇〇メートル余に亘る一大高原である。いまこれを経済的に開発し、加えてその観光性をも兼併させようとすれば、ここに膨大な資金の投入を要する大事業ととり組まねばならない。関係地域の財政力を以てしては、到底その実現は望むべくもない。
 幸いにして、国営による開発の恵沢に浴することに立至ったわけである。事業は国営による基幹事業を主軸として、関係町村は、負担力可能の附帯事業に参加する計画となった。
 事業は、昭和四一(一九六六)年の調査事業開始から、八年の歳月と事業費四〇億円(国営分三三億円、附帯町村営分七億五〇〇〇万円)を要して、大規模草地団地牧場の完工を見るに至った。

 昭和三六(一九六一)― 五― 九 五段高原開発打合せのため関係者五段高原へ出向
         一〇―二〇・二三 五段高原学術調査を実施。 
   三七(一九六二)― 六―二〇 柳谷・東津野・梼原・野村各町村代表・愛大関係者による
                 協議会において「四国力ルスト」と名称統一。
 三八(一九六三)―八―二九・三〇 四国カルスト調査実施。
 三九(一九六四)― 八―一一   五段放牧予定地現地調査実施。
 四〇(一九六五)― 六―二三   姫鶴平において農協和牛三〇頭を実証放牧開始。
         ―一〇―一五   上記放牧牛を現地で抽せんで農家に引渡す。
         ―一〇―二〇   五段放牧現地視察のため農政局長一行来村。
 四一(一九六六)― 五― 三   四国力ルスト大規模草地改良現地調査着手。
 四七(一九七二)―一一― 三   大規模草地改良事業起工式。
 五〇(一九七五)―一〇―二三・二四 岡山農政局畜産課長一行大規模草地改良現地視察(大川峰)。
         通   年     四国カルスト附帯工事として草地開発、電気導入、避雷針設置、
                  電話工事、放牧管理を行う。
 五一(一九七六)― 六― 五    中四国農政局長四国カルスト放牧地視察、
         ― 九―二四    大規模草地改良附帯事業起工(姫鶴平)
         通   年     四国カルスト附帯事業―牧柵工事・基地整備工事・衛生牛舎建築。
 五二(一九七七)―通   年    四国カルスト附帯事業―牧柵工事
 五三(一九七八)―通   年    同         ―敷地造成・看視舎及避難舎建築・電気導入
                              牧柵工事・避雷針・電話施設
 五四(一九七九)―通   年    同          衛生牛舎、農具舎、監理道整備、牧柵工事。
 以上の経過を経て、整備され運営されている現況は、つぎのとおりである。

           (図表 運営状況 参照)

畜産化期における牛馬飼育数のうごき

畜産化期における牛馬飼育数のうごき


運営状況

運営状況