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柳谷村誌

第三節 村有林造成事業の起り

 明治一五・六年ころから、村の一部の人たちが、ぼつぼつと、植林するようになって、明治末期を迎えた。
 そのころ、わが村における植林勃興の大きな因をなし、やがては村の財政危機を救うという、名荷サブガリ山の画期的な村有林造成事業があった。

 発想と財源確保 

 明治四二年、四代村長鶴井浅次郎が就任した。この時すでに、村長の脳裏には、植林の重要性と、村有林造成の必要が、深く刻みこまれていたようである。
 ときあたかも、村では伊予水力電気株式会社によって、黒川水力発電開発が誘致されることになった(第四編第一章水力発電参照)。明治四二年九月一五日、伊予水力電気株式会社、社長才賀藤吉と、村長鶴井浅次郎は、水力発電事業に伴う相互の仮協定を結んだ。その協定によれば、村は一五年間に亘って、毎年会社から四五〇円(今日の一五七三万九〇〇〇円相当)の寄附を受けることになり、その寄附金の使途について、条項の一部を抜すいしてみると。
          協 定 書
 第二条 柳谷村ハ前条ノ寄附金ヲ以テ左記以外ノ事業ニ支出セザルモ
    ノトス。
  一 右寄附金ノ内会社ヨリ受クル初年ヨリ五ヶ年間ハ、道路改修及
   修繕費、其他ニ関スル土木雑費ニ充スル事。
  一 前同寄附金六年目ヨリ、向フ一○ヶ年間分ヲ以テ植林ヲ為ス事。
   但、植林地ノ買収植付後一〇ヶ年ノ手入費其他植林ニ関スル雑費
   ヲ支弁スルモノトシ、植林地ハ堰堤ノ上流ニ選定スルモノトス。

 村長鶴井浅次郎は、我が村における水力開発において、水源涵養のため、植林の重要性について強調し、電気会社との接渉を重ねて、契約を有利に導き、その財源確保の見通しをつけることに成功した。
 黒川水力開発がめまぐるしく進んでいく多事多難な時代、その間にあっても、村長の植林構想は次々と進められていたようである。明治四三年七月には、もう黒川第一発電所は竣工の運びとなった。

 土地確保 

 明治四四年国の法律にもとづいて、部落有財産が、村へ統一されることになった。村会は委員を選んで、村内各部落の部落有財産につき、その慣行調査を行った。そうして部落有となっているもので、田畑・山林・宅地など、また会堂や堂に至るまで対象とし、部落に処分さすもの、村へ統一するものは一〇〇件以上に及んだ。
 村会の議案を抜すいすれば、
  議案第一九の一
   部落有財産統一管理処分ノ件
 一 柳谷村内各部落有財産ノ一切ヲ別紙明細書ノ通リ之ヲ村へ提供シ、
  権利移転ヲ明ラカニスル事。
    (別紙省略)
   理由
    部落有財産ヲ村へ提供シ、村ノ発展ヲ期セントスルニヨル。
      明治四四年一一月一五日提出
                   右部落財産管理組合
               上浮穴郡柳谷村長  鶴井 浅次郎
  議案第一九号ノ二
   統一部落有財産管理処分の件
 一、本村ニ提供セシ各部落有財産ハ之ヲ受理シ以下各項ニヨリ管理処
  分ス。
 一、従来学校林卜称スルモノハ、柳谷村立小学校基本財産トシ、造林
  方法ヲ講ズル事、尚、従来村有トシテ、本項ト同一ノ精神ヲ有スル
  モノモ本項ニヨル事。
 一、字サブガリノ三筆二一六町歩ハソノ筋ヨリ、技術者ノ派遣ヲ乞ソ
  ノ指導ニヨリ管理処分ヲ定ムル事。(大正一二年実測三〇一町歩)
 一、建物ハ保存上費用ヲ要シ維持スルハ却テ不利ナルニヨリ、所在地
  人民ニ競売スル事。但公売方法ハ、村長ニ委任シ、ソノ売却ヲ了ス
  ルマデ貨貸方ヲ講ズル事。
 一、河前ニ対スル電気会社ヨリ受クベキ金ニ付テハ、会社ト会議ノ上、
  更ニ村会ニ於テ離決スル事。
 一、別紙明細書記載ノ地所ハ各所ニ散在セルヲ以テ、将来管理不便ナ
  ルニヨリ之ヲ土地所在地人民ニ公売シ、収得金ヲ村基本財産ニ合シ
  管理スル事。
   理由
    統一セン部落有財産整理及管理区分ニ関シテハ、慎重考慮ヲ要
   スルヲ以テ、本方法ヲ定メ、村財政ノ運用ノ桟宜ヲ計リ以テ村基
   本財産ノ増殖ヲ企図シ、本村ノ隆盛ヲ期セントス。
      明治四四年一一月一五日
                   柳谷村長  鶴井 浅次郎
 このようにして、部落有財産統一はすすめられ、その対象となった主なるものに、広大な面積を有する名荷部落有地字サブガリ山三筆二一六町歩(実測三〇一町歩)が含まれていた。
 この部落有地は、明治二一年以前は純然たる私有地であり、共有地であったが、当時の管理者は、本地を無断で処理しようとする形勢が現われ、共有者の間では不安の念が起き、そのため名荷部落有に更正して、当面をしのいだとも伝えられ、また、名荷部落の土地の所有権保存登記をすすめた時代、名荷の入口方面からと、奥からと両方から実施していたが、名荷の代書人藤岡亀太郎が途中で死亡し、サブガリ方面が残り、一括名荷担有にしたともいわれる。
 しかし、いずれにしても、昔から毎日朝な夕なに笠取山を仰ぎ、サブガリ山を眺めて住みついている名荷部落の人々にとって、部落有財産の統一は寝耳に水であり、いかに法律によるとはいえ村へ取り上げられることは、納得ができず、大きく反対した。
 当時の名荷部落は、四八戸、組寄りが度々開かれた。しかしこの中には、村長とともに、議決に加わった地元の村会議員、松井伊蔵、稲田元吉の両名があり、村と部落の板ばさみ、内心では部落民となんら変りはないけれども、時の為政者として、大局的な立場に立たざるを得ず、村長とともに、部落民の説得につとめた。村の基本財産の造成のためには、この広大な山林を自然の儘に放置せず、植林をすることの必要性、長期間の造林事業による人々の働き場、現金収入が得られる魅力、村長と両議員による説得は、根気よく続けられて、部落民も漸くにして、承知するところとなったが、地元議員が強引に押しつけたのだともいわれている。
 かくして村長鶴井浅次郎の熱意が実り、名荷部落有地サブガリ三〇〇町歩の提供を受けることによって、造林の素地確保が達成されたのである。
 村はこれに応え、大正四年一月村有林野条例を制定して、地元に林地保護のため組合を設けさせ、村有林保護の報酬として伐採期収入の一〇〇分の一を保護組合に交付することを規定した。これも、部落民説得の段階における約束だったのであろう。
 後年、村有林の伐採によって、条例にもとづき、交付金をもらった部落では、一割だと聞いていたんだがと頭をかしげるものもあったというが、受取る部落民も、子や孫の時代となってのことである。

 造林事業着手

 村長 鶴井浅次郎の在職六年間をもって、村有林造成のための、土地と財源の確保がついた。
 大正四年度に至って、初めて造林費が、予算に計上され、事業が実施されることになった。
 かくして、村長鶴井浅次郎は柳谷村村有林の大きな礎を築き、柳谷郵便局長に就任するため、勇退して、五代村長鶴井菊太郎へとバトンタッチをしたのである。
 初年度は、苗圃が名荷部落に作られ、奥深い名荷にも人々の出入りが多くなり、苗作りが始められるようになった。

 境界紛争 

 やっと部落との話しはついたころから、サブガリ三〇二番地と隣接する私有地二九五番地との境界紛争が始まっていた。村はナゴゼ谷をもって、境とすることを主張し、隣接地主は、谷を渡って畝までと、その面積はおよそ数町歩に及んだ。そのうち隣接地主は二九五番地を売却した。
 新地主はまた、紛争地の立木を、当時松山からナゴゼ山に入って、製材を営んでいた成瀬利八へ売却した。
 村会は、委員を選んで、度々現地調査を行い、境界確認訴訟をおこすことになった。
 この事件も結局は、大正五年一一月、郡長の調停によって、土地は村有地である。立木の売却代金一〇〇円のうち、五〇円を新地主に交付するということで、村は事業の着手を急いだ。

 造林事業推進 

 村では初めての、植林事業を円滑にすすめるため、大正四年二月村会において、議員の中から、次の四名を村有植林常設委員として選び、中で一名はほとんど常任として事業の推進を委嘱した。

柳井川 泉松太郎  土居夘三郎   西谷 稲田元吉  古川丑太郎

また、植林技術の指導については、当時久万営林署の出先機関で、落出小林区があり、駐在員を人々は、小林区さんと呼んでいたが、この小林区の指導を受けた。
 当時の小林区さんは、茶畑市松と言う九州の人だったという。茶畑市松は、人間性、技術面ともに優れた人であって、村の事業に理解を示し、苗圃の指導から、植付など惜しみなく努力を払ったといわれる。永らく在職して指導に当たり、人々から尊敬され、また慕われていたようであり、当時、茶畑市松の名は村内に広く知られていたという。また、名荷における若き日のロマンスもあったとか。村を去りて、ずっと後年には、朝鮮における営林署の重要なポストに就いたと聞く。
 村の常設委員と熱心な指導者によって、大正五年度からいよいよ植林が始まった。毎年の植付を約一〇町歩と定め、苗作り、地拵らえ、植付け、手入れと作業は多く、部落民はもちろん、村内各地から、人夫を集めたようである。
 初年度の人夫賃をみると、一人役三〇銭となっているが、当初は、村も初めての試みであり村民の協力を得るため安い賃金であったと思われる。したがって、村内各部落へ割当をしていたようで、集って来る人夫を苦力と呼んでいたと言う。多勢の仕事場が確保されて、柳井川方面からも、ずっと名荷に泊りこんで働く人たちがいたという。
 こうして多くの人々の植林事業従事によって、我が村の造林意欲は急速に高まってきた。植付けを始めてから、八ヶ年、大正一二年までには、村有林サブガリ山の一角に次のような造林がなされた。
  一、植付面積  八〇町歩
  一、造林事業費 七、六九八円(今日の九三〇〇万円相当)(八か
   年の村の歳出決算額一七万九六三三円、今日の二一億五四〇〇万
   円相当)

 造林事業中断 

 当時の村の予算に占める造林事業費は、当初の大正五年から四、五年間は約一〇パーセントであったが、次第に一般費が増加するようになり、また、造林事業費も増高して、財政的に一応植付けは大正一二年度をもって、中止せざるを得なくなった。

 官行造林契約 

 時の村長藤田順吉は、サブガリ山村有林三〇〇町歩造林の、意欲に燃えた先々代からの村長の意志を強く受けていて、これを遂行する方策について研究を重ねていた。
 たまたま、大正九年官行造林法の発布を見、一早く村長はこれが有利であることを認めた。以来営林署に対して、強く要望を重ね、これが取り上げられることになり、大正一二年一二月官行造林契約が締結され、約二〇九町歩について、大正一四年度から、五年計画の事業が実施されることになり、大きく事業の中断することを免がれた。
 これによって、明治四二年、村長鶴井浅次郎の一大発想以来一五年、電力会社の援助と、多くの人々の協力と努力によって、名荷サブガリ山三〇〇町歩に及ぶ造林計画達成の見通しがついたのである。
 昭和初期に入って、直営林の保育、官行造林の追加契約や、変更を繰り返しながら、造林事業は、多くの人々の働き場となり、毎年地元青年団の活動資金獲得の場にもなり、また奉仕作業なども行われた。
 太平洋戦争も、あまり村有林造成に影響することなく、年ごとにうっそうたる樹林となって、昭和二七、八年を迎えた。もうこのころ、当初植林されたものは、四〇年生近くともなって、見事なものとなっていた。

 伐採収穫 

 当時村は、戦後の学制改革によって、新制中学校の建築をはじめ、各老朽校舎の改築など、村財政は大きく圧迫され、更に、昭和三〇年代になっては、西谷小学校統合校舎の建築、柳谷村中学校統合による教育施設整備による大事業、村は莫大な財源を必要とした。
 しかし、〝我が村には、村有林名荷山がある〟 一二代村長永井元栄、一三代村長政木茂十郎、いまこそ先輩の偉業による財産を活用するべきであると確信し、動ずることなく、思い切った施策を断行した。
 村有林は、次々に直営林約六〇町歩、官行造林解除によるもの二一、五四町歩が伐採されて、大きく村の財源と代った。

 再造林 

 再造林をすることは、絶対的な使命である。昭和三二年から三四、五年にかけて、二五町歩、四〇年から四一年にかけて、五三・八三町歩を再造林した。これが、再造林と保育は、一四代村長近澤房男、村有林伐採当時の収入役として、基本財産の重要性を痛感しており、いつの日か、必ずや再びこの村有林が、村の後世に役立つことを、堅く信じて、二〇年間にわたり、その保育に専念した。
 ここに村有林サブガリ山の再造林も、二〇年生から、三〇年生を迎えんとして、再び水源涌養の役目を果たしているとともに、大きく村の基本財産が造成されている。

 ○村有林の現況
   村財政の安定を図るため、村有林の拡大を目指して、昭和二四年、
   西谷メド山の民有林、昭和三三年、熊谷山国有林、昭和三五年に
   は、猪伏山国有林などを買受け造林事業を実施し、村有林の面積
   は、四五〇ヘクタールに及んだ。

村有林管理形態別面積

村有林管理形態別面積


直営林齢級別・面積・蓄積表

直営林齢級別・面積・蓄積表