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柳谷村誌
第三節 予土国境争論
愛媛、高知の県境に延々と横たわる四国カルスト高原、東は天狗高原から、五段高原、地芳峠を経て、牛ヶ城から姫草、大野ヶ原へ続いて、愛媛と高知関係町村の広域的な開発によって、のどかな放牧の牛の群れ、訪れる多くの人々、平和な日々に、いまは昔を偲ぶよすがもないが、かつてはこの地にも、この美しい山の陵線をめぐって、愛媛、高知両県の激しい境界紛争があったのである。
予土国境争論と呼ばれ、この附近約一五〇〇町歩について、土佐の越知面村、芳生野村(現在の梼原町、東津野村)と我が村(旧西谷村)の人々によって二〇〇年余に及ぶ争論が続いた。
国境争論の起り
今から約三〇〇年くらい前、元禄年間(一六八八~一七〇三)のころから、いやもっと以前からだったかも知れない。そのころの当地方には、毎年大風雨、大旱ばつ、大雪などがあって、大飢饉があったと記されている。このような時代、四国山脈の山中にあって、同じような宿命にあった伊予、土佐の両村百姓による、食わんがための争いであったと思われる。
この論争の藩政時代における模様は、明らかでないが、明治になって次のとおり、郡役所へ進達されている、争論関係の書類名を見れば、いかに争論が繰り返されていたかを窺うことができる。
残念ながら、この書類は返還されたかどうか、いつの時代からか紛失している。
農第二二号 予土争論地関係書類
一、西谷村ト土州越知面村ト境目掛合書類 元禄元年(一六八八)弐冊
一、亥七月以来西谷村ト土州越知面村御境 文政十年(一八二七)壱冊
筋之義掛合一件日記
一、西谷村並土州越知面村御境目掛合日記 文政十二年(一八二九)壱冊
一、西谷村土州御境目掛合一件日紀 文政十二年(一八二九)壱冊
一、西谷村卯五月土州御境目掛合書上 天保二年(一八三一)壱冊
自四月至五月
一、夘歳西谷村ト土州越知面村御境目 天保二年(一八三一)壱冊
自四月至八月
筋之義掛合日記一件
合 計 七冊
右ノ通進達候也
明治廿四年 八月八日 柳谷村役場
上浮穴郡役所 御中
明治二〇年代 明治時代となっては、両村の戸長から村長、両郡役所の、介在によるやりとりとなり、西谷村の、明治二四年までの土州との掛合書類は、六八通と記されている。
明治も二〇年代においては、それまでの争論の結果で論地内においては双方とも、耕作してはならぬとされていたようである。
(郡役所よりの文書)
農第二八七号(郡役所より)
貴村高岡郡トノ諭地境内ニ於テ、従来慣行有之場所ノ外、伐木新墾ヲ暫ク見捨テ致ス可ク筈ノ処、此節高岡郡ノ照会ニヨレバ、伐木開墾者ノ者続イテ有リ、西谷村高野組、西川久吉ナル者、此ノ現場ヲ差押ヘラレ候趣キナルモ、右ハ従来慣行ノ有ル場所ニ相違無キヤ、詳細実地ニ就キ御取調ノ上、何分ノ義、折返シ御回報相成度此段至急照会ニ及ビ候也。
明治廿一年五月一日
上浮穴郡役所 第一課
西谷村戸長 土居 通誠 殿
追テ、本文至急ヲ要スル義有リ候条、遅延ナキ様此段為念申添候也農第九号(回答)
本月一日付農第二八七号ヲ以テ、御照会相成ル、高岡郡トノ論地境内ニ於テ、伐木或ハ、新墾ヲナセシ者是有候条、組長、伍長ニ就キ、取調致シタル処、従来ノ慣行有リシ場所ノ外、伐木新墾セシモノ是無候、又西川久吉ナルモノハ、所轄村内ニ居リ申サズ、如何ナル行違イニ候ヤ、今一応先方へ、御照会相成リ度ク存ジ候、右ハ実地ニ就キハイ徊ヲ遂ルモ、伐木株ニ於テハ到底アラズ、兼テカラ一走、組長、伍長ノ者共ニ就キハイ徊致ス可ク候条此段回答ニ及ビ候也。
明治廿一年五月四日 西谷村戸長 土居 通誠
上浮穴郡役所第一課 御中
農第三〇一号(照会)
去ル四日付農第九号ヲ以テ、論地伐木開拓者ニ就キ、御回答ノ趣ナルモ、此処従来慣行ノ有無ニ不抱ズ、論地境内ニ於テ、当時伐木或ハ新開墾ヲ為セシ者ノ、姓名並ニ右ニ関シ、取押ヘラレシ者ノ有ルナレバ、其ノ姓名ヲ詳細ニ一応御取調ノ上御回報相成度此段及御照会候也。
明治廿一年五月八日
上浮穴郡役所 第一課
西谷村戸長 御中
村人をかばおうとする戸長のもとへ、厳しく、郡役所から照会の通達があり、
農第一〇号(回答)
高岡郡ト論地境内ニ於テ、伐木或ハ開墾セシ者ノ義ニ付キ御照会ニ対シ、去ル四日付農林第九号ヲ以テ、御回報方ノ次第モ有リ、示后組方へ立入リ調べ見テ、従来慣行アル場所ニ是有候得共、左記ノ通リ新墾致居候テ、既ニ目今火入ヲ為サントセシ折柄ニ付キ、火入耕転ノ義ハ差留置候、モットモ右切込ハ、多ク昨年秋頃カラニシテ、切開キシ所ノ立木ハ、大ナルモノハ殆ンドニ尺廻リモ有之候ニ付キ、此段御報道ニ及ビ候也。
明治廿一年五月十一日
西谷村戸長 土居 通誠
上浮穴郡役所第一課 御中
ケ所八十ケ所程ニシテ反別ハ概略拾弐町歩人員八三拾四人追テ、方今火ヲ入レ作物植付ノ季候ニ候得共拡大ノ開墾ニ付、従前慣行アル地ト云エドモ、差止メ置キ候条、右ハ如何取扱シテ宜シキヤ御手数乍ラ至急御一報相煩度也。
作付の時期に迫って、その指示を待ちかねる百姓のため、その後再三にわたって、その指示を郡役所へ求めたけれども、従来の慣行地であるという、確たる証拠がないとして、指示がされてなく、百姓たちは、どうなったのであろうか。
越知面村からは、抗議の文書が次々と届いた。
照第一号
所轄越知面村ト御管下西谷村ノ境界争論地ノ儀ハ、数十年以前ヨリ発シタルモノニシテ、当方ニ於テハ争論結局迄ハ、耕作等相無候様、旧藩政中ヨリ、厳重ニ指止有之、而シテ客年両郡長御立会ヲ以テ、御談判有之候得共、未ダ結局ニ至ラズシテ、先日当郡長ヨリ、貴方郡長へ争論結局迄、伐木開墾共指止之儀照会相成候処、御管村人民ニ於テハ、慢リニ鍬入等致居候趣、当村人民ヨリ申出再度照会セラレタルニ、御管村人民ハ、今日ニ至ルモ頻リニ掘開キ居候趣右ハ双方不権衡ノ訳ニシテ、平和協議上ニモ相関スル儀ニ候間、如何ノ行違ニモ候哉、追般御示達ノ模様ナルモ此上取締リ上ノ御見込等直ニ御回報相煩度彼是御協議ノ為、此段及御照会候也。
明治廿一年五月廿五日
高知県高岡郡越知面村 戸長 中越保興
愛媛県上浮穴那西谷村
戸長 土居 五郎治 殿
このようなやりとりの間に、百姓達の開墾は続き、越知面村からも入って来て、新墾するようになったのであろう。西谷村戸長から発送の文書を見れば、
番外第一八号
所轄西谷村ト御管下越知面村ノ境界論地ノ義ニ付イテ、一昨廿年、両郡長実施御立会ノ上御協議ヲ遂ゲラレ候処、双方ノ御意見聊カ相違セシヲ以テ和議相成ズ、終ニ県知事ニ上申中ニ有之候得共、該地取締上ニ於テハ前々と異ラズ、素ヨリ争論結局迄、慢リニ新墾或ハ伐木等ノ義ハ当村ニ在リテハ堅ク押止メ居候処、今頃御管下ノ人民ニシテ頻リニ該地新墾ヲ起業シ、就テハ当村ノ者現場ニ臨ミ、右コノ起業ハ結局迄、互ニ差控へ度旨ヲ以テ渡リ合候得共、更ニ承諾セザル趣キニ有之候処、右ハ如何ノ訳ニ候哉、最モ客年当部下ノ人民ニシテ、該地ヲ新墾セシトカ、貴轄人民ニ在リ評価スル者有之哉ニ及聞候得共、個々全ク新墾ニ之無従来ヨリ慣行ノケ所ヲ伐耕シタル訳ニシテ(併テ是レモ当方ニ在リテハ古来該地ニ頼リ生活セシモノ不尠故ヲ以テ、今更ニ従来慣行アル伐耕地ヲ差止メ候テハ、生活ノ途絶へ無残次第)曾テ当時ニ其旨当郡長ヨリ貴郡長ヘモ、照会セラレタル筈、尚且ツ其旨貴場ヘモ御報書及候次第モ有之依テ当方ハ、古来伐耕外ノ地ハ、県ヨリ差止メ取締致居候義ニ付、其旨御了地御誇示ノ上、何分今暫クハ新墾伐木等御指止メ置キ下サレ度此段及御照会候也。
明治廿九年九月十日
愛媛県上浮穴郡西谷村 戸長 役場
高知県高岡郡西津墅村役場御中
番外
国境論地ノ義ハ曾テ県知事へ上申中ニモ有リ候テ、争論結局迄ハ新墾或ハ伐木等差留メニ付キ、今更申迄モ無義ニ候得共、尚目今高知県関係ノ各役場へ照会中ノ次第モ之有リ、若シ左様心得違イノ者有リ候テハ、甚ダ不都合ニ付、新開墾伐木等ノ起業無キ様此段厳重ニ一般ヘ御通示置キ下サレ度為念此段申達候也。
明治廿二年九月十五日
西谷村戸長役場
組 長 森 岡 英太郎 殿
高 橋 円 蔵 殿
高 橘 半 平 殿
明治二三年に至って、柳谷村が誕生し、また高知県側も、西津野村と東津野村に村名が変わった。
論地境界の早期解決を急ぐ住民の要望は、日増しに強くなって、村長は両村へ現地立会を求めたけれども、高知県側は応じなかった。
本月廿五日付農第四十九号ヲ以テ御照会ノ趣承知致候、然ルニ該争論地タル這回発シタル義ハ無之数十年争論ノ地ニシテ、貴村役場ニ於テモ、従来御配慮有之殊ニ去ル明治廿年両郡長立会之際モ、双方申立ノ境界御取調ノ上、争論ニ係ル土地ハ、何レヨリ何レノ間ナルカハ詳ニシ、利害ヲ量リ御見込モ相立テタルト言ヲ侯タズ、依テ争論ニ係ル区域ハ判然ノ訳ニ付、今更実地ニ御立会致ス必要無之様相考候間此段御回報候也。
明治廿三年十一月廿八日
高知県高岡郡西津野村長 西村伊之助
柳谷村長 土居 通誠 殿
本月廿五日付農第四九号、照会書落掌、就テハ、不日御回答可及候ニ付此段及御通報候也。
明治廿三年十一月廿七日
高知県高岡郡東津野村役場
柳谷村役場 御中
住民は村へ、村は郡役所へと、その解決を要望し続けながらも、山深く広大な地域、村にしても県にしても、その実態は容易につかむことができなかったものと思われる。明治二七年ころになって、高知大林区署が介入して、論争地にからむ国有林の測量が行われるようになった。明治二九年に至っては、論争地の実態をつかむため、その内容について、県から村へ調査方を求めてきたが、地租を納めてなき土地の発覚など、その理由についても困難を極めたようである。
三第二七〇一号
昨廿三日土第三号ヲ以テ、土予国境紛争地ニ係ル取調ノ件回答相成候所、草山五百四十町歩ハ民有地ニシテ、納租セザルモノナリ、右ハ何等ノ事故ニ依ル儀カ承知致度且又伐替畑山林四百八町八反弐畝六歩ハ、伐替畑ト山林トヲ区別シ反別地租額ヲモ各別二回報相成度本件ハ其筋へ回答遅延ニ渉リ不都合ニテ候条折返シ差出サレ度此段及照会候也。
明治廿九年一月廿四日
上浮穴郡役所
柳谷村役場
この時の争論地総反別を次のように報告している。
一千五百五拾六町四反九畝廿壱歩 争論地惣反別
内
山林六百七町六反七畝拾五歩 官有地
草山五百四拾町歩 共有地ニシテ納税不致分
伐替畑山林四百八町八反弐畝六歩 民有地
此地租額弐円七拾九銭九厘(現在の一七二、三〇〇円相当)
明治二九年一〇月に至り、県からの現地調査が行われた。しかし、依然として、争論は続いた。
一第五八一号
土予国境紛争地内ニ於ケル其村大字西谷官民有地査定事件取調トシテ、本県属山田喜代治、明廿二日松山市出発ノ見込ヲ以テ、当地へ出張可致候付テハ、当衛主任同行実地検査可致候条、諸事差仕無之様取計ハルベシ、此段及通知候也。
明治廿九年十月廿一日
上浮穴郡役所
柳谷村長 土居 通誠 殿
明治三〇年代
明治三四年における村長の上申書をみてみれば、ますます高知県側からの侵入を告げている。
農第三〇三号
当村大字西谷卜高知県高岡郡西津野村トニ関スル、国境線ノ葛藤事件、其ノ端緒八百数十年以前ニシテ、其間談判トナリ、交渉トナルコト一再ナラズ、然レ共双方主張スル処ノ意見常々齟齬シテ、今ニ落着ヲ見ルコトヲ得サルハ甚ダ遺憾ニ存候、然ルニ管村大字西谷高野部落人民ノ多クハ該地ニ依テロ糊ヲ凌クモノ十中ノ八九分、若シ境界確定マデ、耕作スルコト不能トセバ、当部落人民ノ耕作地ハ殆ンド、皆無トナリ、他へ移住スルヨリ外生計ノ道ヲ求ムルコト不能ニ立至リ候ニ付、従来鍬入慣行ノ地ハ耕作致居候処、昨五日大字西谷横川佐源太ナルモノ来場同人ノ陳述ニ依レバ、同人従来鍬入慣行ノ地へ植付ケノ玉蜀黍(凡十石五斗)窃取セラレタリト、其犯者ハ西津野村人民ノ所業ト申候ニ付、事情聞取ノ上巡査駐在所へ手続相致候。
寒暑ヲ厭ワズ日夜辛酸ヲ嘗メ耕作ニ従事シ、最早収穫ノ場合ニ立到リ、窃取致サレテハ忽チ饐飢ニ落入ルノミナラズ、此儘打捨置キテハ、将来益々暴威ヲ遑フシ、如何ナル惨事ヲ起スヤモ計リ難ク候条、至急境界確定有様、其節へ御棄議相成度此段上申候也。
明治三十四年十一月二十七日
柳谷村長 大窪 傳次
郡長 三浦一志 殿
明治三七年に至り更にまた、侵墾状況を郡長へ訴えている。
農第二二八号
本村大字西谷民有地へ高知県民侵墾之義曩ニ状況及報告置候処、七月拾九日付参第六二号ヲ以テ県官踏査ノ必要上、更ニ目下状況詳報ノ義御照会相成候ニ付取調候処左記之通ニ有之候県ヨリ実地踏査セラルルトセバ、十月下旬ヲ最モ適期ト被存候、其後ニ及ブ時ハ、降雪多カルベクニ付、可然御考慮煩ハシ度、此段上申候也。
明治三十七年八月七日
柳谷村長 大窪 傳次
上浮穴郡長 三浦 一志 殿
第一 侵墾ノ状況
高知県高岡郡西津野村ノ者共本村大字西谷字ハイノ谷及ビハラビヤマ等エ数人来タリ侵墾ヲナセリ其面積並ニ作付物ノ種類左ノ如シ。
侵墾面積山林合計拾余町歩
内 四町歩 玉蜀黍
参町歩 稗
弐町歩 三椏
壱町歩 粟
其他姻草、大豆、小豆、等モ耕作シ居レリ
第弐、地主ノ詰責ト侵墾者ノ主張
地主タル当村大字西谷人民ヨリ彼等侵墾セル者共ニ対シ、是非ヲ責メ立退キヲ命ズレバ、彼等ハ古クヨリ争論地ナルヲ以テ、立除クノ必要ナシト主張シテ更ニ応ゼズ、強テ立除カシメントスレバ暴カヲ以テ我ニ害ヲ加フルハ、従前彼等ノ所為ニ徴シテ明カナルヲ以テ、我ハ決シテ野蛮的行為ヲ慎ミ、正当ナル方法ヲ以テ、彼等侵墾者ヲシテ其非行ヲ遂ゲシメザランガ為メ出訴セント欲スルモ無学文盲ニシテ、時勢ノ知識ニ乏シク自ラ法庭ニ出デテ弁論ヲナシ.自己ノ権利ヲ伸張スルノ法律的知識ヲ有セズ、且ツ弁護士ヲシテ出訴セシムルノ資カナキヲ以テ、無念ヲ忍ビツツアルノ有様ニテ、其筋ノ保護ヲ望ムヤ切ナルモノナリ。
未定地下戻申請
このころに至って、ある一通の文書によって意外なことが判明した。
貴村大字西谷村ト、高知県高岡郡越知面及芳生野トニ境スル、官村民有林野ニ関シ同郡東西津野村両村長ヨリ、民有下戻申請書、農商務大臣へ提出ニ付、本官実地調査トシテ、此程踏査ヲ遂ゲ候処左記書類必要ニ付、御手数乍ラ謄写ノ上来片十一月十日迄ニ、高知大林区署本官宛、御送付相成度此段及御依頼候也。
明治三十七年十月廿八日
愛媛県庁出張
高知大林区林務属 山縣 貞一
上浮穴郡柳谷村長 大窪 傳次 殿
この文書によって、高知県側は本村の知らぬ間に、争論中の未定地を下戻法なるものに基づいて、国へ申請し、最早現地踏査も終った段階なることを知り、驚くとともに、その阻止に向って、村長は日夜奔走を続け下戻申請の却下をめざして、その実状を開申し農商務大臣へ上申した。
高知県東西津野両村長未定地下戻申請ニ付開申
右ハ当村内トサゴエ外二五字ニ関スル反別千三百十七町九段七畝九歩ヲ土佐国高岡郡西津野村越知面未定地七百七拾六町一反二畝歩及同国同郡東津野村芳生野未定地六百三十五町二十一歩トシ、合計千四百十一町一反二畝二一歩ヲ、国有森林原野下戻法ニヨリ、民有地ニ下戻ノ儀出願ノ趣キ以テ、今般高知大林区署在勤御省山林局属、山縣貞一氏実施御踏査ノ為メ、出張ニヨリ、傳承致候、而シテ其申請ノ内容ハ果シテ如何ナル理由ト実正ニヨルカ未定ナレトモ、抑モ該地ハ、旧藩時代ヨリ本村ノ管轄ニ属セルモノニシテ、元録ノ頃土佐国ヨリ境界ノ侵入ヲ企図示後度々争論ヲ惹起シ、今侵入シ来ルモノ発見次第懇諭シ、将来ヲ戒メ侵墾者ヲ帰ラシメツツアリ而シテ其時々、高知県民ノ主唱ハ、天正十六年ノ長宗我部氏地検帳ヲ本許トシ、種々付会ノ説ヲ為スヨリ推考セバ、当度ノ申請モ蓋シ之レ等ヲ理由トシ、出願セル事ト存候故ニ、高知県主唱ノ不条理ト、其実証ヲ左ニ陳述致候。
高知県方ノ主ナル証憑ハ天正十六年ノ長宗我部氏地検帖ヲ主トスト雖モ、其当時ヲ案ズルニ之レ長宗我部氏ガ四国ヲ統一スル時代ノモノニシテ、徳川政事以前ノモノナレバ、本書二山内氏ガ徳川氏ヨリ封ヲ受ケシ知行書ヲ添へ証セサレバ、何等確証ト認ムベキモノアラズト信ズ、如何トナレバ之争論ハ、徳川氏カ各諸候ニ分封セシ其ノ后数代ヲ経テ高知県ヨリ侵入シ来リシモノナルヲ以テ、其当時ノ知行書ニヨリ、判断セサル可ラズ、尚其ノ他地検帖ノ肩書ニ依テ之ヲ、推考スル時ハ、現在ノ四万川ハ元伊予ノ国ニ属セシモノヲ何レノ時代カニ於テ、既ニ土佐領ニ掠略セシモノニ非ザルカノ疑ナキ能ハズ、要スルニ右地検帖ナルモノハ、往古ノ沿革ヲ知ルニ至ルベキ参考ニ過ギズ、然レ共一歩ヲ譲リ、右地検帖ノ境界ガ今ニ襲用セラルルトスルモ、又、何等高知県方ノ証憑トスルニ足ラズ却テ当村二一個ノ材料ヲ供給セルモノトス、地検帳記載名ニ付テ左ノ数項ニ分チ理由陳述致候。
一、地蔵ノ塢 現今高知県方ニテ地蔵ノ森ト称スト云フ、然レトモ何等其ノ名称ノ変換セル歴史ノ証スルモノナシ、而シテ塢ナル字義ヨリ云フモ必ズ長提ノ形ヲナシタル地形ナルベカラズ、然ルニ高知県方ノ称スル所ハ山ノ中復ヲ称シ、何等塢形ヲ為サズ、当村ニ称スル処ハ大峯山脈ニシテ而シテ其称スル主点地ニハ巌石ニテ自然ニ一個ノ地蔵ノ形ト認ムベキモノヲ現出セル所ト称ス。
一、土佐道 高野ヨリ土佐藩唐岩番所ニ通ズル山頂ノ道ヲ称セルモノニシテ、以前ハ当伊予人土佐へ往復セシ道ニシテ而シテ土佐ニ行ク道路ナルヲ以テ土佐道ト称セシモノナリ。
このように次々と、ガンドウガ瀧・カラコウウ子・久万越塢など、多くの地名等について陳述し反証を示している。また時には次のようにも述べ、本村の土地に相違ないと反ばくしている。
本地ハ古来当村ノ管轄ニ有リ、往時連年本地内ニ於テ、越知面村人民ガ畑地ヲ耕作セシ時当村内へ差出セシ受銀証アリ、然ルニ高知県方ニテハ、之レ無智ノ村民ノ誤テ提供セシモノト称スルモ、苟モ一家ヲ経営シ任意ノ契約ヲ作成シ得ルモノカ、無智無能力者ト称スルヲ得ヘキカ、況ンヤ入作小作ニ付テハ、其時々ニ人民管轄越知面庄屋ノ証明アリ、尚徳川政事ニ於テ、之ノ如キ場合ニ必ズ提供スヘキ宗門証明書ノ壇寺及里庄ヨリ提出セルモノ有リ之一歩ヲ譲リ、人民ハ無能力者ト仮定スルモ、其宗門管理ノ僧及里庄ノ責ハ重シ、自己ノ管理区域ヲ置テ他藩ノ者トシ、之レヲ証スベキ行為ヲ取ルヘキ事ノアリ得ベカラザルハ当時ノ藩政ニ徴シテ明ナル義ト存候。
延々と述べて最後に至り、
以上ハ高知県方ニ対スタ本村カ正当防守ノ事理ヲ席述致候モ、尚領域及行政区画ニ関スル古来ノ歴史ヲ考査シ、実地ニ付案ズルニ一勢力者ノ妨歌手段、又ハ勢カノ発展手段トシテ山嶽ヲ以テ境界トスタ場合殊更ニ山ノ中復ニ見通線ヲ設定シ、境域ヲ定ムル除外例ナキニアラズト雖モ、徳川氏ガ山内氏ヲ土佐ニ封ジ、久松氏ヲ松山ニ封セル其徳川氏カ剛封ノ方針ヨリスルモ久松氏ハ家康公ノ異父兄弟タル血縁ニヨリ、内海ト四国平円ノ重鎮トシテ封セラレタル者、何ゾ其重受セル久松氏封地ノ境界ヲ、軍事行政共ニ不利ナル山嶺ヨリ引退セル中復ヲ領域トセルベキ理アランヤ、況ンヤ行政区域ハ建国以来海山川ヲ以テ区城トシ、殊ニ山嶺ノ南地ヲ分画スルハ、陰陽ニヨリ重要視セラレ必ス其他ノ主山嶺ノ頂線ヲ境界トセラルルニアラズヤ、依テ考フルニ其位置何レモ本村ガ主唱スル境界線ヲ以テ適当ノ国境ナリト信ス。上述ノ歴史ト主唱ニヨリ、本村管轄ナルコトハ明瞭ニシテ、其民有地ニ属セル部分ハ往古ヨリ連綿トシテ、今尚納租致来候故ニ、高知県民力官民有未定地、又ハ往古高知県民ノ所有タリシト、申立ツル事実毫モ無之候、依テ民有地所有者連署ヲ以テ此段開申候条至当ノ御処分相仰キ度候也。
明治廿七年十二月十日
愛媛県上浮穴郡柳谷村
大字西谷弐百六番戸
横 川 佐 源 太
(以下四二名の署名あり)
同県同郡柳谷村長 大 窪 傅 次
農商務大臣清浦奎吾 殿
伐替畑請銀証書写
嘉地子宛請始末
一、切畑弐ヶ所 カケ平 日ノ平
七五銭拾弐匁 カケ平
同 拾五匁 ヒノ平
右ノ者此度己ノ年ヨリ向フ亥年迄七ヶ年切嘉地子ヲ以テ十一月切ニ無間違御払仕候万一嘉地子相滞儀御座候ヘバ右土地作当ヲ売立受合ヨリ御渡可申候為念受始末如件
文政五年八月十一日
土州 権 蔵 判
請合 久之丞 判
嘉市兵衛
久米太郎 殿
作 蔵
行政訴訟参加
開申書、上申以来、関連調査を参考にと努力を続けて、明治三八年も七月を迎えた。
郡役所からの通知により、下戻申請については、不許可とのこと、しかし一難去ってまた一難、高知県側はこれを不服として、行政訴訟を提起したのである。これによって、行政訴訟事件参加を余儀なくされることとなった。
三第八一九号
去ル十三日付三第八一九号ヲ以テ及移牒候行政訴訟ニ付テハ、其後県ヨリハ利害ノ関係ヲ有スル土地所有者ヲシテ、参加方申越候ニ付、協議致度義有之候条、本月廿七日午前十時参庁相成度此段申進メ候也。
明治三十八年七月廿四日
上浮穴郡役所
柳谷村長 大窪 傳次 殿
弁護士雇入
高知県東西津野村ニ対スル争論地ニ係ル行政訴訟参加事件ニ付、弁護士雇入ノ件ヲ県属古川一氏ニ委任致度間、此段宜敷御取計下サレ度申入候也。
明治三十八年九月九日
横川 佐源太
西森 千之助
永井 房五郎
森岡 勇次郎
大窪傳次 殿
拝啓御清祥奉賀候陳ハ兼テ御配意相成ル行政訴訟参加申立ノ件、書面ハ裁判所へ提出致置、弁護士ハ太田警務長、西田部長等ノ紹介ヲ頼ミ法学士岩田宙造氏へ交渉致候所、本件ハ入込タル事件ニ付千円(現在の四二、〇〇〇千円相当)位ハ貰ハネバナラヌト申サレルモ、交渉ノ上五百円ニテ引受ル事トナリタルモ、兼テ御話ノ次第モ有之ニ付、一度関係者協議ノ上ナラデハ契約出来難クニ付、協議ノ上何レノ返事ヲナスコトニ致置候条委細ハ面談ノ上申達ス。
東京ニテ 古川 一
大窪 傳次 殿
関係土地所有者と村長の協議によって、東京市の弁護士・法学士岩田宙造法律事務所と契約することになり、契約書案が届いた。
契約書
高知県東西岸野村両村ヨリ、農商務大臣ニ対スル林野下戻行政訴訟参加ノ件
右貴殿ニ委任致候ニ付テハ左ノ事項ヲ契約仕候
一、本件訴訟手数料トシテ金百円也前金ヲ以テ差上可申候、但訴訟印紙代其他裁判所へ納付スヘキ費用等ハ、別ニ御請求次第差上可申候。
二、本件訴訟参加許可セラレタルトキハ更ニ訴訟手数料トシテ金百円也、直ニ差上可申候。
三、本件被告勝訴卜為リタルトキハ成功謝金トシテ全参百五拾円也。直ニ差上可申候。
四、本件訴訟和解取下其他ノ理由ニ依リ、終了ニ至リタルトキ又ハ訴訟継続中、貴殿ノ承諾ヲ得ズシテ貴殿ノ委任ヲ解キタルトキハ、本件勝訴ト看做シ成功謝金直ニ差上可申候。
五、本件ニ付キ東京市外へ御出張相成候節ハ、相当旅費日当御防求次第差上可申候。
明治三十八年 月 日
愛媛県上浮穴郡柳谷村
何某外何名総代
何某 印
弁護士 岩田 宙造 殿
本件ニ付実地調査ノ為メ貴殿御出張相成候節ハ、旅費トシテ金弐百円直チニ差上可申候。
この契約案によって、契約が締結されたようであり、成功謝金旅費、雑費など併せて一、〇〇〇円(現在の四二〇〇万円に相当)を超える経費となった。
この契約の勝訴とは、高知県の両村が訴えている予土国境の、境界査定の請求を、国が排斥した場合であって、訴訟参加を訴えた我が村人の直接の勝訴となるものではなかった。
こうして裁判は開始されたものの、二〇〇年余に及ぶ争論地、その解決は容易ではなかった。たびたび境界の現地踏査が行われ、東京から弁護士も来たと古老は語る。
裁判が始まって、もう七、八年、遅々として進展せぬままに明治時代も終りを告げた。
大正時代
大正元年、九月一日にも現地踏査が行われ、村からも吏員、土岡三郎が同行し、その記録をとどめている。しかし、高知県側との意見は依然異っていた。
復命書
大正元年九月一日本村大字西谷土与県境行政区域関係ヲ有スル国有林境界査定実地立会ニ関スル件
各立会人
愛媛県属 佐野 利平
〃 重川 政幸
郡 吏 高井 寛和
村 吏 土岡 三郎
高知県属 柳瀬 次太郎
高岡郡書記 川岡 幸良
東津野村長 辻 友 恵
西津野村書記 明神 雄吉
高知大林区
林務属 寺田 周太郎
〃技手 小島 芳一
柳谷村官舎区主事 今井 義方
一、九月一日午前拾壱時過キ談判開始、高知県ハ国有林南境ハ従来ノ通リ行政区域ニ就テハ愛媛県ト意見ヲ異ニスト主称セリ依テ之レガ立会ノ必要ヲ認メズ為メニ当方ハ立会セズ、次ニ大林区林務属、寺田周太郎氏曰ク同東境県境ハ明治廿六年ノ調査ニ同意ヲ得度トノ事、両県承諾セリ而シテ前調査ヲ以テ実地ハ別ニ調査ヲ為サズ各員解散セリ。
右復命ス
大正元年九月二日
柳谷村書記 土岡 三郎
柳谷村長 鶴井 浅次郎 殿
大野原境界行政訴訟事件として始まったこの裁判も争論を繰り返しながら二〇年が過ぎた。
大正一三年夏を迎えて、裁判もようやく大詰めに近づき、実地検証の段階となっている。
久第一五六号
大正十三年五月二十六日
久万小林区署
柳谷村役場 御中
大野原境界行政訴訟ノ件
大野原境界行政訴訟ニ就テハ未タ当署へ公文通知無之モ聞ク所ニ依レバ原告側ヘハ来ル六月九日、評定官ノ実地検証アル趣ニテ来ル本月十五日付ニテ呼出状送達有之シトノ事ニ付一報御参考迄ニ御通知候。
追テ評定官ハ六月五日高知県着後順路決定相成タル筈トノ事ニ候。
大正十三年六月十日ヨリ、大野原境界実地検証実施ス
行政裁判所
評定官 関口健一郎
書 記 永井実太郎
原 告
祷原村助役 茨木包政
訴訟代人弁護士 坂本久寿
被 告
農商務省事務官 武田久雄
大林区署属 岡林広吉
小林区署 山崎免喜次
小林区主事 茶畑市松
愛媛県属 飯尾鉄吉
同 中村福次郎
郡書記 正岡公平
高知県属 河野亀喜
嘱 託 高井寛和
村 長 藤田順吉
書 記 谷脇則光
関係者 森岡勇次郎
外
六月十日大野原境界、十一日姫草ヨリ三ツ石附近、十二日森岡勇次郎氏宅ニテ、原告、被告ニ対スル尋問アリ、数時間ニワタリ弁論アリタリ、同十三日地芳峠ヨリ、ガンドウ岳迄、実地検証、午後七時古味ニ帰リ、十四日解散ス。 終リ。
この実地検証が実施されてから、裁判は進行をみせて、二〇年余にわたった大野原訴訟事件は、国側の勝訴となって、高知県側の主張は認められず、大野ヶ原から五段高原にかけて、予土国境は大峯筋の分水嶺と決定された。
郷土を守る、県と村、村人の惜しみなき努力によって、元禄の昔から、二百三十余年に及び、流血の惨事を見せんばかりの争いを続けてきた、予土国境の紛争にも、終止符が打たれ、村人が安心して働ける平和の日々が、よみがえったのである。
人々は永き争論の終結を喜び、地元の人たちは、祝賀会を催すため、久万へ集まることになり、わしの父親も参加したのを覚えていると、中久保の西森義元古老は語った。
県や、小林区署、東京の弁護士も、招いたのであろう、村と村人の感謝の気持が捧げられた。