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柳谷村誌

第三節 戸長制度期における柳谷村区域の行政組織

           (図表 戸長制度期における柳谷村区域の行政組織 参照)

 戸長制度の役割 

 明治二一(一八八八)年に市制町村制が、同二三(一八九〇)年に府県制、郡制の制定を見、わが国近代国家体制の基盤としての地方自治行政機構が強固に策定された。庄屋制度期の被支配政治体制から主体的自治体制への転換が、慶応三(一八六七)年から明治二二(一八八九)年までの短期間に整備されたことは真に驚異に値いする。戸長制度期の成果は大きく評価されるべきであろう。慶応三(一八六七)年九月大政奉還に因る明治新政府の生誕以来、明治四(一八七一)年の廃藩置県までは、名目的には統一国家としながらも実質的には藩政の延長そのままであった。地方政治の要に位置した国―郡段階の役人たちは、中央新政府の基本行政意思を末端に移牒示達することだけに忙殺される状態であった。したがって地方行政組織の改廃に着手する余裕はない。依然として村庄屋たちが、中央新政府系統に属する出先役人たる郡役人の指揮に従って、官意民達の連絡役割を勤めていたようであった。明治新政府の基本政策は、「土地と人の高」を確実に把えることからスタートせねばならなかった。富国強兵の大国是を支える二大支柱は「徴兵制」と「国民教育制度」である。そしてこれらの実現を可能にする基盤としての国家財政は、土地税制の樹立に依存している。明治前期(戸長期)二〇年間の重点施策が、戸籍の確立(兵役と国民教育の基礎)と地租改正の完全実施(財政の基礎)に集中されたことは当を得た政策選択であったと言えよう。
 明治四(一八七一)年四月、新政府は徴兵制実施準備として戸籍法を制定した。「自然村」として生い育ってきた生活域を、政治目的に立って行われた行政施策の第一弾である。行政区画の分会操作は、中央が地方を掌握する鍵である。翌五(一八七二)年五月同法施行のための行政区画として、全国一斉に区を設置した。中央政府は各区へ戸籍事務担当行政官として戸長・副戸長を任命して、戸籍事務を集中的に短期間に遂行したのであった。はじめ戸長・副戸長には、百姓の動静に通暁していた庄屋・名主・年寄等が任命されたが、明治五(一八七二)年、太政官布告で旧来の庄屋・名主・年寄を全廃すると、それらが今まで取扱ってきた土地・人民についての一切の事務を、一挙に戸長・副戸長が取扱うことにした。明治新政府の機知・英断に絶賛を呈したい。なぜか。戸長制はさきの庄屋制、あとの町村長制に較べ、全くその職制特質を異にする。戸長は純粋の行政官であったから。
 それから明治二二(一八八九)年市制・町村制が実施され、町村長が選ばれて町村自治体行政がはじめられるまで二○年近く、この戸長制度は続いた。その間、大区、小区制の施行、区の分合、副戸長制の廃止などが行われた。詳しくは前掲の「戸長制度期における柳谷村区域の行政組織」を参照されたい。
 戸長は人民に直接する行政当事者であるから、この制度の成否は、明治新政の将来に決定的影響をもつ。ついては明治七(一八七四)年五月二〇日布達の「区長事務仮条例」及び「戸長心得」にその消息をうかがうことができる。その緒言はこう述べている。
 それぞれ区長及び戸長は人民の代理者としての実力をもつ者(行政権力保持者)、そしてその事務取扱所(今日の役場)は人民の会議所と言うべきである。だから一口に言うならば、人民のために区長戸長を置いているのであって、区長、戸長のために人民を割当てたわけではない。ついては区長、戸長が処理する事務もすべて人民のためのものであることは言うまでもない。つねにお上と下人民の中間に居て、双方の心情を組み取り充分に取次いで、いささかも通じない点のないように努めなければならない。もしお上からのお布令が人民に通じなくて、人民が曲った考え方を持ち、そのため県行政に差し障りが出来るようなことになるならば、上下に対してその責任を免れることはできない。それぞれ小区長、戸長はこの意味を理解し、本末、終始をあやまらず、自分の権限をはっきりし、任務を守り、一層勉強して、今までの型ばかりのやり方を除いて実際に役立つ事務につとめて、国の利益をあげ、人民の資産を増し、お上のみ心に報い、下人民の権利を守ってやることに精出さねばならない。今ここに日常の事務について心掛くべきことを示すから、区長、戸長はこれを守ってもらいたい。つぎに戸長に対しての戸長心得にはこう述べている。一、小区取扱所(戸長役場のこと)はなるべく戸長あるいは組頭の私宅に置くのがよい。一、人民から差出されたいろいろな願い書、伺い書、届け書は、その内容を調べ、書面の余白に検印を捺して大区の会所(郡役所のこと)へ出すように。なおその書面が利害に関係がある場合には、副状にくわしく添書きすること。差出人の心情が充分お上に届くように力添えしてやることが大切である。ただしその書面の内容が至急に処理せねばならないむづかしい問題事情の場合は、直ぐに県庁へ差出して差支えない。一、届けは、何の届けであるか調べて、生死、出入、平民の家督相続、婚姻、寄留等の種類は、その都度々々戸籍帳に書き写し、一か月分をまとめて翌月五日までに大区会所へ差出すこと。一、政府から大政官布告などのお触れ、県庁からの県布達などのお達しは、取扱所の門前かその他最寄の土地を選んで掲示場をつくり、書類が届いてから三日以内に抜かりなくこれを張り出し、三〇日経てばこれを剥ぎ取ること。尚事柄によっては人民を集めて詳しく申しわたすこと。ただし今までの掲示場で便利よいところはなるたけ使い、あるいは人々の込み合う土地を選んで取り除いても差支えない。一、三か月ごとに区費の決算表をつくり、一部を大区会所へ、一部は掲示場へ張り出し、一部を控え書として取扱書に保存すること。ただし区費の多少は人民に関わることであるからできるだけ節減に努めること、一、区長、戸長の給料や大区会所の費用は、小区内費用と同じく毎期取り立てて大区会所へ出し、戸長給料は大区会所から受け取ること。一、公務のため県庁や出先役所へ出頭するときは、区長に伺って出頭すること。ただし至急の用件の場合は、伺い手続きを経なくて出頭しても差支えない。

 戸長の任務 

 戸長の任務は、区長(大区長あるいは小区長と呼び、後の郡長に相当する)の監督を受け、規則、命令に従って区長が命ずる事務に従事する。中央政府の布告、県庁からの布達を小区(町村あるいは町村組合)内に確実に公示する。地租をはじめ諸税を取りまとめて上納する。戸籍、徴収、下調などの事務を正確に処理すると明示されている。これらが任務の主軸をなしているが、その特質と見られる点は、先の庄屋制及び後に続く町村長制に較べて、いかにも行政官の色彩が濃厚である。これはこの期の行政課題の緊急性に基づき、おのずと任免手続きも官選であったものと思われる。わが国地方行政の礎石を布いた内務官原の頭の冷徹さがしのばれる。

 戸長行政費の措置

 行政活動には出費を伴う。大区(郡)、小区(町村)を問わず、区費の調達、充当、弁償は、区民の分担にまつほかない。明治七(一八七四)年五月二〇日大区、小区分画改定の際の県の布達の「区費運営条目」には、つぎのように定められている。その第五条―区費取立方法に―大小区費賦課のことは、地租改正ができれば一定の規則によってなされるが、当分のうちは、戸へ(均等割)三歩、石へ(所得割)七歩の割を以て賦課すること。その方法は、例えば一〇〇〇石の高で一〇〇〇戸の区では一〇〇円の費用には一石について七銭、一戸について三銭賦課する訳である。賦課方法についてまず郷村は年貢米の高による。市中や士族屋敷地などで今まで無税地であってこのたび地券をうけた土地の分は、地租の金高を石代に比較して割賦すること。つぎに戸放割は華族、士族、僧侶、平民そのほか寄留、同居などすべて一つの戸籍内で生活している一般賦課すること。第六条―区費遺払条目に―(大区費の部省略)小区費の部 一、戸長給料筆墨料 一、戸長の旅費、日当 一、取扱所の紙、炭等の雑費 一、戸長引越料 一、小走の給料 右部分の入費 大区の分は大区内に課し、小区内の分は小区に限って課すること。なお戸籍入費はすべて戸割にすること。さらに明治一三(一八八〇)年八月二三日の「町村戸長俸給規則」にはつぎのように規定されている。

  第一条 戸長の俸給はその町村の耕宅地反別及び戸数の多少により、別紙の表の割合で地方税より支給すること。
  第二条 数町村連合して戸長一人を置くものは、その連合町村の反別戸数を合算し、その大小に応じて支給(比例分担)するとある。

 同日付の町村用掛筆生の給料及び戸長職務取扱諸費賦課法の規定には、

  一、町村用掛筆生(戸長役場書記等)の給料は、その町村の耕宅地
   反別及戸数の多少に応じ、別紙の表の割合で各町村へ渡し切るこ
   と。ただし、数町村連合して戸長一人を置く場合はその連合町村
   の反別、戸数を合算する。
  一、戸長兼務取扱諸費は戸長役場一か所に各金十万円を充て、その
   余りは七分を人口に、三分を反別替宅地に割合い、これを各郡役
   所に下附し、更に郡役所に於て各町村への割賦額を定め以て渡し
   切るものとする。

と定められている。さらに明治一四(一八八一)年七月一四日の戸長以下給料及び戸長役場費割賦法の規定には、

  第一条 戸長給料は一名一か年五十円とし、その余りは金額の七分
 を人口に、三歩を耕宅地反別に割合い、その人口反別の多少に応じて
 各役場へ渡し切るものとする。
  第三条 雇用掛筆生給料は、金額の七分を人口に、三分を耕宅地反
 別に、その人口反別の多少に応じ各役場へ渡し切るものとする。
  第四条 用需費一職務取扱費は金額の七分を人口、郡役所に於て更
 に割賦額を定め、各役場へ渡し切るものとする。
  第五条 前条の金額は、毎年一月一日調の人口反別に拠りこれを定
 め、以後人口反別増減を生ずるときがあっても、その年中は増減しな
 い。

とある。

 郡区町村編制法の制定公布 

 明治一一(一八七八)年七月二二日太政官布告第一七号八―三布達甲一〇一号をもって郡区町村編制法が制定公布されて、今日の地方行政区画の基礎が策定された。

  第一条 地方を画して有県の下、郡区町村とする。
  第二条 郡町村の区域名称はすべて旧に依る。
  第三条 郡の区域広潤にすぎ(例えば浮穴郡・宇和郡のように:筆者註)施政に不便なものは、一郡を分割して数郡とする。
     (東西南北上中下……某郡と言うように)
  第四条 略
  第五条 各郡に郡長各一員を置き、毎区に区長各一員を置く。郡の狭小なものは数郡に一員を置くことができる。

と定められる。こうして、遠く藩政のころから三藩(松山・大洲・新谷)の領域に分かれ、その後久万郷小田郷に分かれていた、面河川域、肱川域の両域は、「上浮穴郡」の新名称で新郡として生誕した。われらまた
愛媛県上浮穴郡―柳井川村、西谷村、久主村、黒藤川村とわが里を称呼するようになったのである。

 戸長制度期における重点施策 

 戸長制度期はわが国の近代国家体制への基盤整備期である。萎微頽廃化した幕藩制度を改廃して、国際性をもつ近代統一国家体制を創成する大事業の基盤を敷設する期である。新機能のハードウェアー設置の段階に相当する。新政府は英断をもって、地人二面の改造を重要施策として掲げた。一つは土地を対象として土地税制の合理化→地租改正による財政基盤の整備であり、一つは人的能力の開発をまって教育、兵役制度の整備充実による国富、国力の伸長である。具体的に施策の展開は、前者は地押丈量(地処取調)と地価算定の作業を経過して地租改正に成功し、後者は戸籍法の完遂を踏まえて、国民教育制度と徴兵制度の拡充に奏功したのである。三大事業のうち戸長制度期に重点施策として功を奏し結実を見たのは、地租改正の大事業であった。この期の代表施策として地租改正事業の展開をたずねる。

 戸長制度期を代表する重点施策としての地租改正 

 この地租改正事業は戸長制度期中の最重点事業である。文字どおり画期的であった。この事業の着想から竣功まで、戸長中心の官民の努力はわれわれの予想を絶するものがある。明治六(一八七三)年五月一四日付の「地処取調人雇用の件」の布達にはじまり、明治一二(一八七九)年四月二日付の「愛媛県地租改正報告第四九号」に至るまで、布告、布達、報告合わせて八五件に及んでいる。いかに克明に進められた大事業であったかが推測される。以下この事業の作業手順を探ってみる。

その一、地処調査―地押丈量作業

 ①各村各字毎に一地一筆ごと番号をつける。畝杭を立てる。②字名、番号、地目、反別、地主名を記入。③一筆毎の野取図をつくる。④野取図を連合して耕地限の切図をつくる。⑤一村限地図をつくる。以上の三図と地引帳を併せて県租税課に提出する。つづいて県検査官の村出張を受けて地引帳、三地図に基づき、県検査官、戸長、地主、村総代等の現地立会で一筆ごと畝杭と照合して、異同、差異を調べ訂正して地積を決定したのである。この地押丈量作業は、当時多大の時日、労力、経費を要する随分困難を極めた大事業であったように推察される。第一この地押丈量に要した費用はすべて農民負担としたこと、第二に測量技術は低級素朴であったこと。作業用具としての間竿は、その間基準が従来六尺、六尺三寸、六尺六寸と藩ごとに区々であったものを、やっと六尺に統一した段階であった。丈量作業はすべてこの六尺基準で両端に各一分宛の砂摺を残した二間竿で実施された。生漉紙をこより綴ぢした野帳に、矢立に小筆、朱筆の筆具で崖も田畦もすべて三角形に見たて、測り、何坪何合何勺計算記録した帳面を見ると只々その骨折に頭が下がるばかりである。こうして隠田の摘発にも努めた結果、地積は従来の検見によったものに較べ非常に増加しているのである。

               (図表 野取帳一号、同二号 参照)

その二 地価算定作業

 この地価算定作業は、① 耕宅地の等級判別。② 耕宅地の収穫量調。③ 殼価、金利の算定。④ 種籾代、肥料代、村入費の算定等の算定項目に基づいて行われた。1 耕宅地の等級決定は、県下を一七二組の村組合群を定め、更に各組合群の中等標準村を選ぶ。等級差は米一反当たり一斗五升として基準設定しておく。さて県検査官が戸長村総代の立会の下に、一地一筆ごとに土地の肥痩、水旱損の有無、耕作の難易、運輸の便否等を判定してその地処の等級を定めるのである。2 収穫量調査は、既往平年作柄を基準として、平均収穫量を算定した。3 穀価については、明治三年~七年五か年間の久万町における平均価格を採り、一石当たり米価四円八厘三毛九糸、麦価は一円三一銭五厘、大豆価格は三円六二銭九厘三毛八糸と定められた。以上地処の反別、地位等級、収穫量、殼価の諸項目からそれぞれの土地の生産額を算出して、それから種代肥料代村入費等の経費を控除した。該地の「一歳収得額」にある倍率を乗じた額を地価と定めたのである。この地価額が新政府にとっての主要税収たる地租の賦課基準額である。さきの庄屋制度期における石高制が村一本の概算額であったのに比べて、この地価制はその算定手続が個別即物的であるだけに、より実質的であると言えよう。しかし諸政策の施行運営の実際には、新政への人民の信頼獲得と施政を支える歳入確保の両面の調整に、深い配慮を必要とする。為政当局においては、税率の上に免租等を含めた軽減の面に細かい措置を伴って運営されていったのである。かえりみて、「土地、人民を制すること」は、古今東西の政治の要である。そしてまた「地所をわがものとすること。」は、万人のもつ願いである。人はこの願いに向って努力を傾注する。「いっしょうけんめい」ということばが人生の指針となる。鎌倉武士の処生訓は「いっしょうけんめい=一所懸命」であった。てがらに応えて地所を授けられることが唯一の願いだった。ここから武士の歩みがはじまる。以来その地所保有のさまがわりはありながら、その保有する土地の支配―為政に終始してきた。そして今戸長期に及んで、従来の特定のてがらに応えての地所保有ではなくて、人間本来の労働に応えて、土地の所有、占有する新しい世界が開かれた。永い土地所有の願いは報いられ、村びとそれぞれに、土地に自分の意志と労働を懸ける一所懸命の生活の歩みが始められたのである。

戸長制度期における柳谷村区域の行政組織 1

戸長制度期における柳谷村区域の行政組織 1


戸長制度期における柳谷村区域の行政組織 2

戸長制度期における柳谷村区域の行政組織 2


戸長制度期における柳谷村区域の行政組織 3

戸長制度期における柳谷村区域の行政組織 3


野取帳一号

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野取帳二号

野取帳二号