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柳谷村誌

第一節 庄屋制度期の政治特質

 農本的封建社会 

 「庄屋制度期」は「歴史編」の「農本的封建社会期」に当たる。歴史編で触れているとおり、その社会特質は農本性である。したがって土地を中心として、その「所有と利用の関係」の上に村の生活様式があらわれる。土地を所有する幕藩側の領主、土地を利用する農民側との関係である。そのしくみが生きつづけるためには、両者を一つのはたらきの部分として、その接ぎ目に庄屋制の役目をおいている。庄屋を中心に村役人、百姓の寄合である惣百姓とを一つのはたらきの部分にしくむことは、幕藩のしくみの基本で、全国すべての藩に共通のものであった。庄屋制度が布かれたとき、わが村の境域は、柳井川・西谷・久栖・縮川の一部の四村であった。「村ざかい」「村わけ」「村むら」のことばが示すように、べつべつのもの、ちがったもの、へだたりあうものとしてのすがたが浮かぶ。いわんや今日の「三分間合意(電話によること)」が、当時の「一人役かけての合意(連絡に一日かかること)」の時代に較べられるとき、一そう相互の「へだたりある仲のかんじ」を深くする。ではいかにして、四つの村それぞれに、さらに四つの村相互に、村役人惣百姓のひとまとめができて、農本性の第一の目的を達成したのか、更に四つの村の間のあらゆるへだたりの感じがとれて、すでにこの期には一つの村らしいならわしが芽ばえ、でかかっていたかを探ってみる。

 同一の通信連絡系統 

 わが村は「久万山村二六か村」のつながり合いに属し、さらに下坂八か村のつながり合にも属していた。大庄屋が居る村を含めた通信連絡の仕組みが、きちんとつくられていた。下坂八か村は、一つの仕組みにつくられていたようである。「書状小走」とでも呼ばれる使い人が一つの仕組みに数名いたようだ。彼らは略同じぐらいずれた時間帯で、決っている使いコースを廻った。彼らが持ち運んだものは、代官・奉行・郡役人中からのお上からのお達しの手紙はもとより、各庄屋所から大庄屋を経て、代官所(奉行所)あての願・届・伺意のお上へ申し上げる手紙も多かった。更に各庄屋所相互間の個人個人の便りも相当数であったようだ。その上、納め物をはじめ個々取引の金品なども持ち運びしたであろうから、その仕事は責任のあるものであった。書状小走が庄屋所に到着すると、庄屋所は次のように片付けを手速くして小走を次の庄屋所へ送り出さねばならない。それぞれの庄屋の御用日誌に記入することは次のとおりだった。小走は何刻何処から到着した。何刻何処へ出発させた。個人個人相互間書状は誰から誰へ、書状の急ぎ具合い(封状・急用状・大急用状など)も併せて書いておく。上位役所からの書状はすべて「お廻状……コピーでないご直筆」だから、全文洩れなく御用日誌に写し取る。庄屋お抱えの「書き方」の忙しさは想像でき、毛筆・文章の上達するのも当然だなあと思われる。享保のころから寛政・文化のころにかけて、華々しく活躍していた、久栖村梅木新太郎・柳井川村貞蔵・西谷村鶴原政四郎らが取り交わし合った発受書状は相当数に上っている。久栖村新太郎、柳井川貞蔵らの発受書状(個人宛)は、享保一〇(一七二五)年下半期三七通、寛政一〇(一七九八)年上半期三一通・寛政一一年通年五四通、寛政一二年通年五二通を数える。村境をもったお互いでありながら、生活情報を通じ合って、一層理解し合った仲で村の経営が進められていたように思われる。

 責任遂行の協和体制 

 前表から読みとれるように、庄屋任務の遂行が、村々庄屋の相互援助体制で推し進められていた。次期庄屋が幼弱などのため、庄屋任務を十分に遂行できない期間は、世話役・後見役・預庄屋などの役割によって補強されている。こうした採長補短の協和によって、お互いの内面実情は充分に理解され合っていた。本来同一生活圏をなしている自然環境(黒川生活圏=黒川文化圏)を背景として、細分されて孤立しているかに見える政治単位でありながら、実は村人ひとりひとりに影響し合う実際生活は、一つの政治圏としての姿に育ち来った
のではないだろうか。

 上意下達 

 社会情報手段が、零に等しい時期である。知りたい知らせたい人間衝動は、今も昔も変わりはない。このころ村人の耳に届く自由情報は、村里の井戸端や辻々に自然発生する「噂ばなし」だけであった。「噂ばなし」には尾ひれが自生する。そしてデマに化身し、誤伝謬報の魔力の芽を研ぎすます。果ては社会を動揺撹乱の巷に陥れてしまうのである。
 村役人の活動を要とした上意下達・下意上申は、繁文褥礼だ、屋上屋を重ねると誤解されるほど、細かしい配慮が払われるのは当然であろう。わけて、農本性社会の特質から、農事に関すること、貢租に関することは、最大中の大事である。この二つについてお触れ書の例を探る。
 新しい歳を迎え、村里に松の内の祝酒の香がさめかけたころ、お代官所から大庄屋所を経由して、村庄屋所にお廻し状第一号が痛く。

  一、麦作修理ノ儀ハ、去歳蒔付ノ節、雨天勝チニテ手後レ、然ル上
   猶又当歳ハ、春短カニツキ、別シテ修理ニ油断ナク出精ヲ致スベ
   キコト。(麦作の手入のことは、去年蒔付のころ雨つづきで蒔付
   おくれ、その上今年は春がみじかそうだから、特別に手入れにゆ
   だんせず、急いで精ださせること。)
  一、井溝浚イ、井関普請ノ儀ハ、油断ナク早々ニ相整エルヨウ致ス
   ベク、裁許ノコト。(井戸・みぞさらえ、井戸・せきの修理など、
   ゆだんせずに早目にやっておくよう、さしずすること。)
  一、春田拵エハ、村直シノコト。(春田のじゅんびは村一せいにや
   らせること。)
  一、苅敷キノコト(草刈りして田の面にひろげておくこと。)
  一、春雨ノ内ニ、内俵編ミ置クヨウ、一統ニ申シ聞力スベキコト。
   (春雨が降っているうちに、取入れの米俵の内俵をあんでおくよ
   う、みんなに言いきかせること。)
  一、スベテ御法度筋ノ儀ハ、毎々ノヨウニ仰セ出サレ候。別シテ、
   郡方ノ倹約筋ノ儀ハ、去ル己歳ニ委細ニ仰セ出サレシ趣、弥契相
   守リ、尤モ博奕ヤ諸勝負ノ儀ハ、重々御制禁ニ付、是又毎々仰セ
   出サレ候通リ、瑣細ノ儀ニテモ、相違ヒ申サザルヨウ、急度相守
   リ申スベク候。去ル寅歳ニ仰セ出サレシノ趣、能々相弁エ、古法
   ニ基キ候ヨウ、精々裁許致スベク、若シ心得違イノ者モ有リ候ハ
   バ、当人ハ勿論、村役人共二急度厳シク申シ付クベキコト。
   右ノ箇条書ノ通リ、村々庄屋組頭並ビニ役職ノ者ドモヘ、能々相
  心得、イササカモ油断ナク、端々迄洩レザルヨウ、急度申シ付クル
  ベキコト。             文化一四丑正月  御代官

 (すべてとめられていることは、いつもの通りに申されている。とくに、いなかの者の倹約については、己の歳にくわしく申されているようにきちんと守り、もちろんばくちやかけごとなどは、きびしく禁止されているから、いつも申されるとおり、少々であってもあやまちしないようきっと守らねばならない。先だって寅歳に申されたことを、よくよく頭に入れて、昔のおきてに従うように、十分にさしずしておき、もしあやまつ者があったら、本人はもとより村役人共々にきびしく申しつけねばならない。
 右の箇条書きのとおり、村々の庄屋、組頭、役職の者共へ、よくよく心得させ、少しもゆだんせず、はしばしまで、きちんと申しつけること。)                    御代官

   別紙ノ通リ仰セ出ダサレ候間、此段御承知ノ上、村々端マデ洩レ
  ザルヨウ、急度御申シ聞カセコレアルベシ候。右コノタメ申シ入ル
  ベク、カクノゴトクニ御座候。       大庄屋  何 某
  (別紙のとおり申されたから、ついては、よく承知の上、村々のは
  しばしの者へもれなくきちんと申しわたすこと。右のとおりに伝え
  ておく)                 大庄屋  何 某

 毎歳の出来秋(神無月ごろ―一〇月)、村庄屋に集荷され、三通の皆済納目録を添え、御代官所を通じ、幕藩の御蔵入するのが、村々のお物成(お年貢)である。三通の納目録は、代官所・藩に控書として各一部ずつとどめられ、正本は物と共に江戸表の御耳目に達せられる。年改って春浅きころ、受納書の意を含むお沙汰書が、村庄屋所に届けられるのである。

   一筆啓セシメ候。然レバ、久万山去ル寅歳ノ御物成ノ収納コレア
  リ、十一月十日納目録御留メラレシ上、則チ江戸ニテ御聴キニ達シ
  候トコロ、役人庄屋百姓ドモ出精シテ皆済仕リ候儀、御喜色ノ御事
  ニ候。此旨ヲ右ノ者ドモマデ申シ聞カスベク候。尚又、麦作ノ修理
  其外、農事ニ、油断ナク相励ミ候ヨウ、申シツケルベク カクノゴ
  トクニ候コレアル儀ニテ候。
     二月二八日         山田数馬正雅(花押)
                   黒田伝内普賢(花押)
     津田半助殿         近藤弥市左衛門幸中(花押)

 (一言申しあげる。と申すことは、久万山村昨年寅歳の納め物を受け入れられ、十一月十日に納目録を受取られた上、江戸のご領主にまでお聴及びになって、役人、庄屋、百姓共みんな精出して、全部納め遂げたのは、りっぱであるとお喜びになった。このことみんなに申し伝えて欲しい。尚お今後とも麦作の手入そのほか、農事にゆだんせずはげむよう申しつけることを、併せてつたえておく。)

   別紙之通リ仰セ出ダサレ候間、是又御承知之上、御申シ触レナサ
  ルベク候。右之申シ入レカクノゴトクニ御座候。
  (別紙のとおり申して来たからこのことご承知の上、みんなに申し
  触れられたい。右のとおり申し入れる。)

 下意上申 

 上意下達の要が村役人であるように、下意上申の要もまた村役人である。歴史編の村役人役割で述べているとおり、村役人の責務はほんとうに重大であった。特に農事・貢租に関わること、村の治安秩序については、村役人の対応ぶりは真剣そのものであった。村人ひとりびとりの意思に添ってやるため、村役人が書き付け、奥書きして上意に達する各種の願い書・届け書・伺い書・意見書の文面には、情念躍如たるものが感ぜられる。その中から文書の種類をいくらか抽出して、村役人の苦慮・深察の姿を偲んでみよう。

(1) 農事お年貢について言上
  ・麦の生い立ちわるく郡お役人ご見分を願い・村内田植はじめの日
お届け ・村内田植しまいの日お届け ・日照続きの処恵み雨に喜
謝を訴え ・大雨で作物被害多大、お役人ご見分願い ・風雨痛み
大きく、お年貢足り申さずの思い訴え ・麦作赤葉出はじめ、気惑
を訴え ・風雨のあと長雨続き、穂出ず困り訴え ・風雨で大小豆
  実入りあしく、お年貢気懸訴え ・長照りで田植遅れ、減収心配お
届 ・雨乞祈祷のおかげ、瑞雨に恵まれ、喜謝訴え ・日照りで大
小豆さや数わずか、お年貢の心配 ・水害で田痛み大きく、減収気
惑い訴え等。
(2) 禁制秩序について言上
  ・博奕打ち蔵元筵蔵入咎方につきお伺 ・博奕打常習者厳しくご裁
許方お願 ・処帯持ち娘と駈落、この咎方につきお伺 ・願出せず
四国順拝せる者共に対して「農事外俳徊留」の咎方如何やお伺。
(3) 社会治安について言上
 ・行旅人負傷死亡―自他殺不明につきお伺 ・遍路体の者死亡、処
置についてお伺 ・風俗あしく農事心掛けざる者に対して、前の取
調べのとおりきびしく御咎方お願い ・不心得者行先不詳、処置方
お伺 ・組頭両名行先不明、お取計方お願 ・組頭の代勤者、御申
付け方進達 ・長寿者名届出 ・孝実者の褒賞方御願 ・組内火災
  罹災難渋者救恤お願 ・極難渋者御救恤米御下し御願。
(4) 家庭もめごと、内々ご調整について言上。
  ・男女相思駈落、縁づけ方御伺 ・近隣者寝取りさわぎ、内々ご調
停方お願。

畑所村 

 政治の機能を生命体の活力管理と見ると、政治の運営は、からだにおける循環系の管理になぞえられよう。村々の政治も、その村の循環系の特質にふさわしい特色を示すのである。わが村の庄屋期の政治を特色づけるものとして、なにを循環系特質と捉えるべきであろうか。
 わが村は他編で触れているように、西南日本の外帯に属し、とくに予土の国ざかいに位置すること(面河村、旧仕七川村、旧中津村、柳谷村)が大きい特質。したがって、前掲の旧村と同じように、焼畑景観を現わにした畑所村と運命づけられてきた(これらは経済編の主軸となるものであろう)。前四項目で述べている庄屋期の情報伝達のあり方を、循環系の血管特質と見ると、国境の山村、畑所村では、それらの血管を流れる血液の特質と見据えられるであろう。
 西南日本の外帯は、日本有数の多雨地帯。わけて国境の境域は雨に風が伴う。山村型風雨災害は人畜家屋災害はごく稀で、作物災害である。作物に及ぼす傷損、喪失、不実の実害である。山村とは言え、田所村の風雨災害は軽ければ七分作に、重くても半作は歩留る。だが、畑所村は、一夜の風害、数日の長雨長日照で、収穫は皆無となる。畑所村の風雨害は、飢饉への決定的な要因となるのである。天保四(一八三三)年から天保七(一八三六)年に打続いた飢饉は、天保七(一八三六)年その極に達し、久万山村の畑所村一四か村中、わが西谷村と大味川村の惨状は言語に絶するものであったという(詳細は歴史編参照)。
 庄屋期の畑所村の政治には、飢饉対策、救恤施策が大きい比重をもつ。天保七(一八三六)年の大飢饉の翌八(一八三七)年、難渋者救恤施策がとられている。

  村々極々難渋者救御救ヒノ儀、御役所ヨリ御奉行所へ、御伺相成
リ居リ陰ヘドモ、迚モ成リ申サズ候。然レ共、極々難渋者共卜致シ
  而ハ、其ママニ難日ヲ送ルノ思召シ、極々難渋者バカリ、左ノ通リ
  御救米御渡シ相成候間、人別ヲ極リ早々ニ御渡シ、尚割符御差出コ
  レ有ルベク候……(村々の特別貧乏人を救われたいと、お役所から
  御奉行所へお伺いしたがお聞入れなかった。しかしながら、特別貧
  乏人たちは、苦しい日々を送っていることと思われて、特別貧乏人
  についてだけ、つぎのとおりお救い米をお渡し下さるから、人数が
  きまり次第渡される。なお受取り切符の差出すことをぬかりなくす
  ること)。

 備荒民積施策―久万凶荒予備組合の母胎 

 飢饉率のきわめて高い、畑所村を多く抱えている久万山村において、根本的、広域的視点に立った救恤施策は、今日の久万凶荒予備組合の母胎をなす備荒民積施策である。以下同組合生成の経緯を尋ねる(伊藤義一著『久万凶荒予備組合誌』)。
 凶作―飢饉の対応は、事後の救恤のみでは政治性に欠け失政を招く。松山藩は度重なる飢饉対応失政の反省に立って、備荒民積施策(併せて米価調整機能をも狙って)に転換した。安永四(一七七五)年の非常囲籾制度がその発端となる。その後明治四(一八七一)年まで九十余年に及んで、諸種動因の起こる度ごとに、貯米、利殖の共同積立が発想され、継続された。以上七項目に及ぶ要因を探る。

 一 安永四(一七七五)年非常旱水災予備米(安永の非常囲籾) 藩
  指導で農民から籾供出させ共同積立を行うもの。米の乏しい村々の
  分は、田所村が引受けて蓄えてくれた。翌年の種籾の見通しが立っ
  た出来秋後に、共同夫役の籾摺をさせ、現米は奉行所支配で、その
  利殖を計った。明治四(一八七一)年二三六三俵となっていた。
 二 天保九年藩からのお下され米  天保七(一八三六)年の大飢饉
  後、天保九(一八三八)年、藩から久万山分として下された米二八
  石九斗九升八合であった。さきの貯え米に加えられ、その分明治四
  (一八七一)年に、二九八俵三斗九升となっていた。
 三 明門元備え金  飢饉・伝染病・離散によって、久万山村の人口
  減少・明門増加は甚だしかった。藩は米金を下して戸数、人口の増
  加を図った。この明門元備え金の利子で、居宅建て、農具買入をさ
  せて、村の門立てを図った。その金明治四(一八七一)年に、銭札
  一一一貫一二五匁七分五厘(約五五〇円)となっている。
 四 赤子養育米  生活苦は、赤子間引をかもし出していたようであ
  る。まことに聞くに堪えない悲惨事である。弘化二(一八四五)年
  藩主勝善公の御用米として、久万山から献上した米一四〇俵、故あ
  って差戻されたものを赤子養育米として積立て、出産救助・堕胎棄
  子防止に充てた。その積立て、明治四(一八七一)年米八〇七俵三
  斗一合となっている。
 五 風損元備え  嘉永二(一八四九)年の大暴風雨災害復旧として、
  藩主勝善公から五か年間に米一五〇〇俵、久万町紙場所利益金三か
  年分銭札一九貫六九四匁三分五厘賜った。この米金で災害復旧を行
  い、その残額米五九八俵二斗九升五合、銭札六貫五〇八匁三分を、
  風損予備として積立てた。これが明治四(一八七一)年に銭札一〇
  八貫一二匁二分五厘(約五四〇円)となっている。
 六 畑所年貞売米値違い積立  弘化四(一八四七)年代官奥平貞幹
  の発案で、畑所村の年貢と直売米との値違い間銭を、積立て凶年の
  備えとした。銭札二五三貫六六〇匁五厘(約一〇六八円)となって
  いる。
 七 郡役人差配米  大庄屋の差配に渡されたもので、藩内一般に行
  われたものである。一割利付で貸し付け、その利二〇俵を年々大庄
  屋給料に充てていた。この米が二〇〇俵となっていたのである。

以上七種の起源をもつ米金は、奉行所・代官所で利殖が図られ、人民救恤に充てられた。明治四年久万山租税課出張所引払いの際、大庄屋船田耕作(久谷村庄屋)に全部が引継がれ、今日の久万山凶荒予備組合の発足の原資となったのである。

 久万山凶荒予備組合のあゆみ 

 明治四(一八七一)年、大庄屋に下げ渡された米一六一四石六斗八升・金二三六三円九九銭は、当時としては驚くべき巨額である。(今日の六億七三〇〇万円相当)藩の恩恵・代官所取扱よろしきを得た賜物というべきであった。しかも下げ渡しの節示された取扱定規には、貯米の本旨、取扱運営の留意点がるる述べられている。
 この精神が組合の生成と発展の根幹をなしてきたものと思われる。

 一 組合の変遷

  明治四(一八七一)年  久万租税課出張所より大庄屋引継ぎをうける。
  明治五(一八七二)年  新設職制戸長引継ぐ。
  明治七(一八七四)年  久谷、窪野両村分離。久万山二四か村共有民積米金と改称。取扱人井部栄範、監督山内門十郎・山之内精一郎
  明治一八(一八八五)年 各村連合会開催 久万山共有凶荒予備と改称。同維持規則制定。
  明治二三(一八九〇)年 明神村外八か村久万凶荒予備組合と改称。町村組合となって郡長管理者となる。
  大正一三(一九二四)年 久万凶荒予備組合と改称・組合規約改定。
  大正一五(一九二六)年 郡制廃止、管理者を組合長とし今日に至る。

 二 組合の事業

  窮民の救助  火災、風災、窮民、郷学校補助
  学資金貸与  個人別学資無利子貸与・上浮穴郡教育義会
  公益事業   地方産業経済文化

 三 組合の財産

  この組合の財産は、歴代の管理者、組合長の運営よろしきを得て、各種の事業によって地方民を潤おしつつ、過去一世紀有余、次第に蓄積を増していった。今日、土地・建物・預金・有価証券等膨大な財産となっている。そのうち特筆すべきものは、植林地である。手入間伐がもたらす事業資金増大、材積増嵩による評価増等、瞳目すべき財産形成の大道を進んでゆく。

 庄屋期の政道ここにみのる 

 約二〇〇年前、窮民救恤の藩公の政道に端を発した「非常囲籾制度」は、今みごとに実って、共有財産形成の福祉生活を謳歌するに至った。人もしこの間において、初心を忘れ、物財に惑うことあらば、今日この実りを法悦するに至らなかったであろう。天行まことに健なりと申すべきである。