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柳谷村誌

(二) 久万・梼原線の整備

 国道昇格 

 昭和五六年、新緑映ゆる五月三〇日、国道四四〇号線昇格の祝賀会が、来賓をはじめ、多くの村人の参加によって、起点である落出において、盛大に開催された。栄ある祝賀会において村長近澤房男は、この昇格に最大の力を得た塩崎潤代議士をはじめ、関係各位に深く感謝のことばを述べるとともに、「本路線は、村にとって、産業・交通・文化の振興と、住民生活の根幹をなしているものであり、この路線にまつわる歴史は古く、久万・梼原線として、県道に認定された馬道の時代から、車道の開設、また延長へと、地城住民の悲願を負った、幾多の先輩諸氏が涙ぐましい努力を続けられ、ここに夢のような、国道昇格に至る礎を築かれたものであり、あらためて深く感謝の誠を捧げるものであります。」と、遠く先輩を偲び、この喜びをかみしめるとともに、今後、国道改良の早期実現に向かって、邁進することを誓った。
 久万・梼原線、これは、国道四四〇号線として、昇格に至るまでの永い本路線の歴史の中で、この路線にまつわる喜怒哀楽はあまりにも多く、地域住民の脳裏に一番深く刻みこまれた名称である。当初は梼原・久万線として、認定されているが、あえて、久万・梼原線と呼ぶ。

 西谷往還 

 西谷への道、それは、黒川の上流奥深く、古味に向かって、柳井川松木で岐れて、永野・崎山を越えて西谷に入り、郷角・本谷・小村・大寺を通って名荷の入口(西谷公民館のずっと上)のククリ松から、赤子(五黒発電所付近)に下りてまた登り、関のうねを越えて滝野へと、山山の上部のうね、さこを、それは遠い道のりであり、往古より西谷往還と呼んでいた。
 現在の広域基幹林道西谷・日野浦線は、西谷地域方面では、当時の西谷往還にほぼ沿った上部を通っている。
 昔は、道のことを里道と呼び、これが村道に変わってきた。
 明治二三年、柳井川村と西谷村が合併して、柳谷村が生まれた翌二四年には、予土県道が村の一端を走って、対岸の中津村へ渡り、土佐街道とも呼ばれた。
 明治二五年、落出から川前・大窪谷の里道が着工開通されたと、里道にふれる村の初めての記録である。おそらく「松木御城下」と呼ばれた、村の政治、経済の中心地から、土佐街道への里道がつくられたものである。
 このころから、一〇年もたって、明治三五年一〇月、村会では、大字柳井川永野から、西谷に通ずる人馬道の里道開さくについて、熟考しようという協議がなされている。とすると、永野くらいまでは、もうそのころ馬道が開通していたようである。

 九尺道路開設計画 

 それから熟考すること四年、日露戦争も終って、明治三九年一一月ようやく西谷往還の里道について、三代村長大窪傅次により、当時としては、驚異的発想と思われる、九尺道路の開設が村会で議決されている。
   (会議録抜すい)
 柳井川落出ヨリ、西谷菅行ノ奥、柾小屋林道二接続スル里道改修ノ件
一、路線ハ、測量ノ出来得ル限リ、他ノ部落モ通過スルヲ要ス、但シ道路ノ幅八九尺トシ、車ノ通ズルヲ要ス。
二、測量手雇入レ実測ノ上、経費ノ如何ヲ鑑ミ、成功期間ヲ定ムルモノトス。
三、里道改修ハ、大字限リ負担トシ、各大字二於テ改修スルコト。第六番議員、藤田松次ハ、路線二付キ、出来得ル限リ、多クノ部落ヲ通過スルト云フハ非ナリ、落出ヨリ川前ヲ経テ、永野ニ至ル如ク、可成リ近キ方ヲ至当トスト述ブ、第九番議員、鶴井菊太郎ハ、原案賛成ヲ述ブ、三番議員、室木嘉吉、六番説二賛成シテ、議題トナル、議長ハ第六番説ト原案二付キ、議決スルコトヲ宣告シ、六番議員二賛成者二名、原案賛成者八名ニシテ、六番議員説消滅シ、原案ノ通り多数ヲ可決ス。(当時の議員氏名は、政治編参照)
 当時小田深山柾小屋へは、現在久万町の落合から、大野ヶ原陸軍演習場のため、開設された砲車道が林道となっていた。落出から、菅行の奥まで、里道を改修して、九尺の車道にしてこれに接続する。日露戦争、戦勝の気運に燃えていた時代の考えであろうか。県費の補助申請及び運動に要するとして、二五〇円(現在の九八〇万円に相当)の借入れを行っている。しかし、運動がどのように行われたかは不明であるが効を奏せず、断念しなければならなかったようであり、七年後の明治四二年九月に至って、またもとの馬道開さくに変わった。

 馬道計画 

 「落出、土佐街道分岐点ヨリ、大野ヶ原車道二連スルヲ終岐点トシテ、馬道開鑿ヲナシ、是ヲ幹線道路トシテ、川前ヨリ高地休場ヲ経テ、休場二至ル枝線馬道ヲ開鑿スルコトトス。」と決定した。そうして、馬道聞さく工事費として、金五〇〇円(現在の一七〇〇万円相当)を借入れることを決め、大字西谷の議員の要求によって、その着手期限を、明治四三年三月一〇日と決定することについて全員賛成した。ところが、その後、馬道開さくは測量して認可を要するとされ、なかなか着工に至らなかったようである。

 柳橋改修 

 里道の改修について、多くの谷の橋梁が難関となっていた。その大きな橋梁の一つに、落出トチ谷の柳橋があり、この橋の改修が明治四三年九月、柳橋は落出橋と改名されて改修された。
 落出橋の改修については、幸いにして、当時黒川第一発電所の建設中であり、次のように、伊予水力電気株式会社ならびに、才賀藤吉より、多額の寄附を受け、また、柳井川、西谷の住民からもそれぞれ寄附をしている。
  落出橋総工事費  八三一円二六銭六厘(現在の二六〇〇万円相当)
   寄附金
    伊予水力電気株式会社社長 才賀藤吉 三〇〇円
    大阪市東区今橋四丁目   才賀藤吉 三三一円二六銭六厘
    大字柳井川 鉾石武吉外三〇四名   一〇三円四〇銭
    大字西谷 松井伊藏外二八〇名     九六円六〇銭

 馬道開通 

 明治の時代も終わって、大正も早、三年の一一月を迎え、ようやく里道を馬道にするための、測量が行われた。落出、古味間約六九八三間(一二・七キロ)について準備道路として、四か所四二九間(七七二メートル)が先ず改修されることになり大正四年から着手されたようである。
 落出・川前間の改修については、明治四二年に九尺幅の車道に改修するよう決っていたが、約八七三間(一五八七メートル)の改修が、大正三年度に行われ、川前部落は伊予水力電気株式会社から、貰った一四七八円八三銭七厘(現在の四六九六万円に相当)を寄附している。馬道の開さくについては、村の財政は極めて貧困の時代、地区部落民の寄附や、労力奉仕によって行われたものであり、各部落ごとに、区域を分担して事業が進められ、その推進役となった村会議員や組長、また住民の労苦の程がしのばれる。馬道が古味まで、全線がどうやら完成したのは、大正九年であろうと思われる。
 明治三九年、柾小屋林道への車道開設を夢みてから、もう一四、五年もすぎて、やっと二メートル幅の馬道がつき、人々は喜んだ。これから西谷往還は新しい馬道の時代を迎えたのである。
 大正九年には村道西谷線として道路元標(川前旧役場前)から古味森岡勇次郎宅前までが認定された。落出から川前へ、旧役場前を通って、ヒウチ谷を永野へのぼり、部落の中をすぎて崎山を通り、八釜のうねをこえてから、ほぼ現在の道路沿いに古味までの遠い道であった。

 人々は歩いた。古味から落出まで、当時の馬道の道程は、一二・七キロ、約三里となっている。歩いて四時間もかかったのではなかろうか。無医地区の西谷、人口の多いそのころ、病人も多かった。生竹を割って三角に曲げ、戸板を置いてかき捧を通し、その上から毛布を掛けて、隣近所の人たちが、かわるがわる病人をかいて(かついで)出る。朝出ても、昼に落出の医者に着くか着かないか、昨日も今日もと西谷から病人をかいた人の群れが、馬道を通った昔の姿を思い出すと、沿線部落の古老は語る。

 西谷馬道、林の中を曲りくねって、夏の若葉のかおり、秋は落葉に埋まり、道端のすぐそこには、山芋の葉っぱが黄色くいくらでも見られた。当時、木材をはじめ、ミツマタ・雑穀など生産物の搬出も、また生活物資の搬入も、全部が、主として馬の背によった「駄賃持ち」、あるいは、「馬方」といわれる多くの人たちが、毎日往来していた。途中で荷を積んだ牛馬に会うと、馬道のあとに、よけねばならないような場所も多かった。悲喜こもごも、人々にとって思い出多き西谷馬道も、いまはもうわずかに、その名残りをとどめているにすぎない。

 県道認定 

 大正一〇年代になって、その年の一〇月には、土佐街道に、仁淀川吊橋(落出大橋)が架設されて、落出の渡し舟は、土佐街道開設以来三〇年余りにして姿を消した。
 このころになると、落出を接点として、高知県の野村自動車と、松山の三共自動車が提携して、フォードの乗用車で五人くらいを運ぶ、松山・高知間の自動車が営業を開始し、一一年には、中央自動車の松山・久万間に定期便が開通するなど、自動車時代到来の兆しが見えるようになって、西谷線の車道開設が再燃した。地芳峠をもって隣接する現在の梼原町に通じるよう、県道認定をめざした。
 大正一一年八月二四日、村会に初めて、土木委員を設置し、次の四名を初代委員に選挙した。現在の産業建設常任委員に当たるものであろうか、当時は土木を専門とした。

 室木英雄  兼井兼太郎  丸山鶴蔵  近沢一美

続いて、県道久万・梼原線期成同盟会を結成して、高知県梼原村と提携し、その運動体制を整えた。
 時の村長藤田順吉は、土木委員並びに期成同盟会委員とともに、県議、代議士を動かして、運動を続け、また、高知県側の認定を、足掛りとするべく、梼原村と合流して、高知県会へまでも運動に参加したという。かくして大正一二年度において、梼原・久万線として認定されるところとなった。

 運動費訴訟問題 

 昭和九年一一月一九日の村会で、村長永井元栄は諸般の報告で「梼原・久万線運動費大字西谷負担タルべキ順ニ付キ森岡勇次郎氏対丸山鶴蔵・渡部石太郎貸金取立訴訟問題ハ、従来ヨリ、委員会及村会に於テ、常二御配慮ヲ煩シ居タル所、遂二円満解決ヲ見ズ、来ル一二月一九日公判トナリタル次第ナリ、然レ共 是ヲ以テ 事件ハ終了シタルモノニアラズ、禍根ハ、将来二残ルモノナレバ此ノ上解決ノ為二努カアラン事を望ム」と述べ、また、昭和一四年一二月二八日の「村会議事録」には「鶴井浅次郎議員ヨリ渡部石太郎、丸山鶴蔵、藤田順吉諸氏ノ、本線に関シ払ワレタル犠牲二対シ、此ノ際緩和ノ方法ヲ講ズベキニアラズヤノ意見ヲ述ベソレゾレ意見ノ交換ヲ行フ」と記されている。
 そもそも、本訴訟問題の真相はつまびらかでなく、当時の久万・梼原線運動哀史として秘められている。当時、県道認定を成功するためには、村長をはじめ、西谷議員がその運動の中心となった。丸山鶴蔵・渡部石太郎・近沢一美らが主となって行われ、松山・高知方面における運動費は、相当多額にのぼったようである。もちろん公費も支出されているが、運動を続けているうちに大字西谷負担の額は、森岡勇次郎に対する丸山鶴蔵・渡部石太郎両名の借用証となっていたと言う。本人はその借用証に捺印した覚えのないことを主張し、借用証をめぐる裁判が行われたようである。しかしまさしく、本人の印鑑が捺印されてあり、丸山・渡部の敗訴となった。これが支払いの全額は不明であるが、丸山鶴蔵は、自己の財産である田畑を処分して、返済したと言われ、多年にわたって家をもかえりみず、久万・梼原線運動に没頭し、その果の犠牲はいたましかったといわれている。

 改修事業容易ならず 

 県道認定が成って、同年六月一七日村会は次のように議決した。

                 久万・梼原線工事着手二関スル件
 本線工事着手二関シテハ、大正一二年度二金五千円(現在の四三〇〇万円に相当)ヲ予算二計上シ、内一千円ハ村有林ヲ処分シ、其ノ残額二分ノ一宛ハ村費及ビ大字西谷ノ負担トシ、不均一(反別割)ヲ賦課シ充当スル。

 県道認定はされても、改修工事は村単独で実施しなければならず、その地元負担の過重さがうかがえる。
 大正一三年二月、村会は、久万・梼原線速成に関する実行委員として、永井元栄・鶴井浅次郎を選挙した。県費助成について 強力な運動を続けながら、村の単独事業継続を余儀なくされ、大字西谷内部においても、
地元負担である特別税(反別割)の納税が困難となってきた。
 大正一五年度の当初予算審議においては、村会においても地元西谷議員の反対があるなど、当時のきびしい動きを見せている。

    (会議録抜すい)
 一二番議員 四款土木費五千円ハ、久万、梼原線ニ対スル寄附金デスカ。
 議長    左様デアリマス。
 一二番議員 土木費五千円ニ対シ、私ハ不賛成デアリマスカラ、本年度ハ何トシテモ事業ヲ中止シテ貰イタイ。
 七番議員  寄附金四千五百円ハ是即チ久万、梼原線土木費卜思イマス。此ノ事業ニ付テハ、二番議員、三番議員ニ願ッテ居リマシタ、其ノ経過ヲ御報告ガ願イタイ。
 議長    之ニ付キマシテ、三番議員ヨリ 報告ヲイタシテ貰フ事ト致シマス。
 三番議員  其経過ニ対シ詳細ノ報告アリ。(内容不明)
 七番議員  只今 三番議員ヨリ 御説明ノ末行ニ有リマシタ、特別税反別割徴収ハ、不均一ノ徴収デアリマスレバ、名荷組ハ、部落挙ツテ今ニ納付ヲシテイナイ。又第四期ノ戸別割モ未納デ有ルト云フガ斯ル事ハ、納税上ハ勿論、円満上誠ニ歎カハシイ事デ、当局者に於テモ、相当御考ヘナサッテ居ル事ト思ヒマスガ、何ヲ云フ御考ヘカ当局ノ御意見ヲ承リタイ。
 議長    七番議員ノ御質問ニ対シマシテハ、名荷部落ハ今ニ不納シテ居リマスガ 部落挙ツテノ滞納デ有ツテ、其事情等ヲ調査シテ了解ノ上、事円満ニ解決ヲ致シタイト考ヘマシテ、過日、名荷部落民ノ集合ヲ願ヒ、其ノ際出張シテ、種々意見ヲ聞キマシタガ、同部落民ハ、道路ハ村開発上是非必要デ、不賛成デハナイガ、シカシ今日ノ不景気ナル場合、負担ニ堪ヘラレント、百人百出デ布リマスノデ私トシテハ、道路ハ必要ナ今、経済ノ不況ニ付キ、負担ニ困ルト云へ共、其ノ負担力ハ充分アルモノト思ツテ居リマス。ソレデ不調ナレバ、法ニ依リ処分ノ方法ヲ執ルヨリ、致方ナイト思ツテイマス。
 二番議員  私ハ此際各議員ニ伝ヘラレタキ希望ガ御座リマス。御承知ノ如ク、歳出臨時部第四款土木寄附デアリマスガ、本村ハ土木計画ヲ数年前二立テ、其ノ後各位ノ熱誠ナル御協カニ依リマシテ、久万、梼原線ガ生レ、既ニ大正一四年度ニ於テ工事ニ着手スル迄ノ運ビニ到リマシタ事ハ、誠ニ村発展ノタメ、至極結構ナ事ト存ジマス。然ルニ、一五年度に於テモ反別割ヲ徴収シ、事業進行スルコトナレバ、未ダ其ノ税ヲ滞納シテ居ル処モアリマス事デ、此ノ点ニ付イテハ、理事者ニ於テモ、熱心ニ着々ト整理シテ、戴イテ居ルト思ヒマスガ、本土木費ハ、実ニ重大ナ問題デアリマスル故、私ハ前ノ如ク、動議ヲ提出シマシテ、半数ノ賛成者ヲ得トル訳デアリマスガ、期クノ如ク重要ナル問題ハ、是非満場一致デ、原案ニ賛成シテ貰イタイモノト希望シテ止マナイモノデアリマス。
 議長    只今、二番議員ノ申サレマシタ如ク、一四年度モ斯クノ如ク進ソデ参ツテ居リマスレバ、今年ノ予算ニ於カレマシテモ、是非満場デ原案可決ニ考ヘテ貰イタイモノデアリマス。然ル故ニ、休会ヲ致シタノデ有リマスレバ、各位に置カレテモ、充分御考へ下サイマシタ事ト存ジマス。以前ニ於テ満場一致デ可決シテ、本年度ハ一致セヌトナレバ、今後ノ事業遂行上ニ於テモ面白クナク、又村会ニ於テモ 賛否同数ナル事ハ、例ノ無イ事デモアリマスレバ、何ントカシテ満場一致デ可決ヲ願イタイノデ有リマス。

 こう述べて、本村会の議長である 村長藤田順吉は一息ついた。予算村会は、二月二六日に開会されてから、不眠不休の状態で、四日目の三月一日、久万・梼原線の土木費について、一二番議員を除いては、全員
賛成にこぎつけたのである。
 大正時代においては馬道が開通し、それが県道に認定されたものの、その改修については困難をきわめ、まだ車道開設に向っての見通しもつかぬまま、久万・梼原線は農村恐慌にあえぐ、昭和初期を迎えた。
 地元負担である反別割納税問題は、ややもすると、他の部落まで影響しそうな状態にあった。
 昭和二年一〇月一四日の村会では、西谷議員から、久万・梼原線の改修費については、村は起債をもって、速みやかに完成されたいと建議し、理事者は、充分償還方法などを調査して発案すると答えている。この間においても、県費予算獲得について、運動は続けられており、期成同盟会へ三五〇円(現在の三〇〇万円に相当)を支出している。
 当時の政界は、政友会と憲政会とが政権を争って、その政争は熾烈を極めていた時代、県会議員選挙は大きく道路事業に影響していた。その当時の我が村は七〇パーセントが政友会であったと言われ、為政者はその判断を誤ることなく、事を運んだことは、今も昔も変りなかったようである。
 昭和三年度予算村会は、二月二八日に開会されてから、三月三日まで、五日間に亘って審議が行われ、その論議の焦点はやはり、久万・梼原線の事業費である。
 予算原案に計上の事業費七四〇〇円を、四万二〇〇〇円と増額する修正案を提出した西谷議員、論議は論議を呼んで治まらず、やっと五日目、柳井川議員の修正案・事業費を一万五〇〇〇円(現在の一億二六〇〇万円に相当)とすることが、過半数で議決された。当年度の歳入歳出予算の総額は、四万四四九六円(現在の三億七四〇〇万円)であり、久万・梼原線の事業費はその三〇パーセント近くを占めていた。当年度の予算が動き始めようとする六月村会、村長藤田順吉は、久万・梼原線陳情の経過について「県においては遠からず本格的な測量に着手しうる模様であり、また、梼原村方面においても高知県において実測に着手する模様である。」と述べた。

 オリオヘ着工 

 こうした動きの中で、昭和二年度から着工していた、西谷の古味橋架設を見、また当年度においては、西谷方面の入口である字オリオにぽつんと二八〇間(第一期工事、五〇〇メートル余り)の県道改修が行われた。経済不況、政争、まだまだ強かった当時の大字意識、どうしても第一期工事を、西谷地区に着工したいという住民の執念によって、落出基点からという案にどうしても賛成せず、サカイノを越えて、鍬入れされたのであるという。

 落出基点より改修始まる 

 昭和五年度には、いよいよ落出基点から、延長六〇四間(一〇八八メートル)続いて六年度には二五○間(四五〇メートル)が開設された。第三工区である川前部落の用地交渉に当たっては、現在の通称公園附近における迂回個所では、耕地面積が多く潰れ、それに県の買収費は低廉なるとの理由で、村へ補償の要望強く、交渉が難航したようであるが、久万・梼原線の重要性に理解ある地主の人々によって解決をみている。

 匡救土木事業適用 

 このころ農村不況の旋風は吹き荒れて、国は農村救済のため、時局匡救土木事業と称する制度をつくった。昭和七年度に至って県は久万・梼原線を本事業の対象として取り上げた。
 現在における辺地対策、過疎対策事業などのような諸事業に、失業対策を併せたようなものであったのであろう。
 村会は六名の委員を選任して、新しい制度の推進に取組んだ。「一〇月二六日の議会で、村長は、会議に先だち、土木委員と共に県庁に出頭して、匡救土木事業について、大字西谷においても分割して、施行できるや否やを質したる経過・及び本県道を引続きヒウチ谷まで、改修方を陳情したことを報告した。」と議事録に記されており、本事業について、分割して西谷方面でも着工できないかと、委員ともども県庁におしかけたものと思われるが、経過報告の内容は不詳であるが、その後の状況からして、分割方法は不可能だったものと想像され、改修事業はまだ、川前ヒウチ谷までは、とても及んでなかったようである。
 同日「時局匡救土木府県道梼原・久万線改修工事を柳谷村において、請負せんとす、総工事費八二五六円(現在の八〇〇〇万円に相当)村長は匡救事業なるが故に、内務省及び、県の方針に従い、村において請負、直営工事として施行する旨を説明、満場異議なく可決した。」とある。

 就労者組合もめる 

 そうして翌二七日の議会では、附帯決議として、予算全部をそのまま、村内就労者全部を以て組織せしめたる組合に委託して、工事を完成せんと議決しており、失業救済の趣旨が現われているようである。ところが、工事の執行方法について、またもや混乱が生じることとなった。一一月一四日、村会を開いて藤田村長は「譲原・久万線工事着手に関し、過日の村会において、工事の執行方法については、土木委員会に於て、審議すべく決定したので、去月二八日土木委員会を開き、村内各大字に団体を組織せしめ、工事を二分して下請なさしむる方針を決定し、同月三〇日村内組長を招集し、その案を示したところ、大字西谷は是とするも、大字柳井川は不可とする説により、一致を見ず、故に一応各組に之を諮り、其の結果を代表者をもって、一一月五日報告せんことを求めたり、而して一一月五日報告によると、柳井川は前回説を変更せず、西谷は団体の組織を終了したる報告ありて、妥協の余地なく、村長は、大字西谷に対し、一団体に賛同するよう、一応協議を求め、
その結果を一〇日に報告ありたるも、阿等変化をみず、故に一一日更に土木委員会を開催し、この上は村会に於て、慎重協議するを可とする旨決し、ここに本会議を招集したものである。」と述べた。
 村会においては、先に就労者組合は一組織とすることを決議しているにもかかわらず、土木委員会は、二つの組織とする方針ですすめたため、大字西谷は直ちに団体が組織され、それを困難とする村の方針で、その団体の解消をめぐって論議を呼んだ。かくして、匡救土木事業による、梼原・久万線の工事執行方法について、村会は九月以来一〇回も招集されて、一一月二七日の村会においてようやく次のような決着を見るに至った。
 大字西谷より、団体を解消するについての条件として、強く村当局へ迫り、村は先の附帯決議を取り消すとともに、請負金をもって、万一不足を生じる場合の補顛金は、特別税(反別割)を充当せず、ほかの一般歳入をもって、これに充てることを議決したのである。ちなみに、後年、本年度施工の直営事業において、五三〇円(現在の五一八万円に相当)内外の欠損を生じたことを報告している。

 永野、古味間開設に曙光 

 あれこれと難問題を繰り返しながら、久万・梼原線も昭和一〇年代を迎えて間もなく、永野部落の端まで、ようやく改修された。落出から約四キロ、古味までの三分の一にも達しない、着工以来六、七年もかかっている。いつの日か古味まで、改修されることがあるのだろうか、西谷部落民の望みも、はかなくならんとするところ、幸いなるかな、伊予鉄道電気株式会社による第四、第五黒川発電所の建設計画によって、曙光が見え、一大転機をもたらした。しかしこれをめぐって、久万・梼原線の道路史上最大の波瀾を巻きおこすこととなる。
 この時代、村では久万・梼原線問題もさることながら、教育に関する諸問題、中でも柳谷第一尋常高等小学校の黒川への移転統合問題などが、勃発せんとする矢先であり、あらゆる難局に向って、昭和一〇年一二月、八代村長高岸勝繁が就任していた。日華事変が始まって間もないころ、昭和一二年一二月、村長高岸勝繁は、伊予鉄道電気株式会社社長太宰孫九との間に、第四、第五黒川発電所建設に伴う協定を結んだ。
 その条件の中に久万・梼原線の開設が明記されている。

    (協定書抜すい)
        協定書
一、乙ハ県ノ諮問二対シ、甲ノ第四、第五黒川発電所建設二関シ、何等異議ナキ旨ノ決議ヲ為シ、其ノ旨県へ答申スルモノトス。
二、甲ハ甲ノ負担二於テ 府県道久万・梼原線中、現在改修終点ヨリ、柳谷村字古味古味橋二至ル区間ヲ、巾員九尺トシ 県ノ認可ヲ得テ改修スルモノトス。前項改修二要スル用地二関シテハ、県ノ査定シタル金額ヲ以テ 乙ヨリ甲二提供スルモノトス。
  (三、四、五 省略)
 前記ノ通リ、協定セシコトヲ證スル為、正本弐通ヲ作製シ、協定者各一通ヲ 保持スルモノトス。
             昭和一二年一二月一〇日
                   協定者
          甲 伊予鉄道電気株式会社社長  太宰 孫九
          乙 上浮穴郡柳谷村長      高岸 勝繁
                   立会者
            県会議員          新谷善三郎
            愛媛県経済部長       山田 俊介
            愛媛県土木部長       千葉  屶

 この契約の締結について、村会は交渉委員を選任し、村長とともに、会社との交渉を有利に導かんと、県会議員を動かし、また県当局の協力を得て、接渉に当たった。
 幅員九尺という会社案に対して、一二尺道路を開設するよう主張し、長期にわたって交渉したけれども、結局九尺道路で、村長は妥結せざるを得なかった。それにしても車道開設は、住民にとって一大朗報であり、発電所建設に大きく期待した。
 昭和一三年一二月七日の議会、「村長は久万・梼原線改修に関し、本線未工区間を、幅員九尺をもって、施行するべく、先に交渉が成立しているが、これを村長において一二尺巾と変更すべく交渉し、その成立を見たる上は、拡張の分に対し、幾分の村費を支出するも差仕えなきやを議会に諮り、満場異議なく、近沢・永井両議員より、本線幅員は一五尺を最も希望するものであるが、これが延長、または完成を一日も早く希望する次第であり、一二尺にしても差任えなきをもって、早く完成されたき希望を述べた。」と記されている。
 このことから、村長は一二尺道路の実現に向って、最善の方策を検討していたようである。

 西谷の決議 

 そのころ大字西谷においては、一二尺道路の実現を願って、大字会を開き、その決議をもって村当局へ陳情している。

          決 議 録
 昭和一四年三月一一、二日両日ニ渉リ、伊予鉄道電気株式会社ガ西谷ニ於テ、施行スル事業ト、道路改修ニ対シ、大字会ニ於テ左記ノ通リ決議ス。
 一、伊予鉄道電気株式会社事業ニ対シ、大字村民ハ、好意ヲ以テ当ルコト。
 二、久万、梼原線改修ニ付イテ村会ノ決議ニ基キ幅員拾弐尺ヲ絶対ニ要望ス。
 三、路線ハ前ニ、県土木課ニ於テ、測量ニヨル路線ヲ、絶対ニ採用スル事。
 四、右ニ付イテ、実行員ヲ定メ、村当局及ビ県ニ対シ、陳情ナス事。
 五、右目的ニ連セザル場合ハ、個人トシテ土地ノ交渉ニ応ゼザル事。
 六、以上ニ対シ陳情等ニ要スル費用ハ、大字費ヨリ徴収スル事。
 七、道路改修ニ対スル陳情実行委員左ノ通リ選定ス。
                 大字総代  組長  大西 房吉
                       仝   松井 良雄
                       組長  西川津賀根
                 村会議員      高橋 数馬
                 仝         村上 義春
                 仝         近沢 一美
                 仝         西森 義元
  右ノ通リ決議ス。
         昭和一四年三月十二日
            (大字西谷各組長 伍長四〇名署名)

 同年四月三十日 村会を招集して 村長は次のように述べた。
 「久万・梼原線について、三尺の拡張費は村において負担し、会社に施工さすことになりおりたるも、本路線の迂回並びに、路線が旧道を形取っていることは、大字西谷総会の意見として、認容できざる陳情ありたるにより、三月二七日、大字西谷の陳情委員とともに、県庁に出張して、経済部長、土木課長、宮内技師に面接、西谷の意見を陳情したが、考慮を払うとのみの回答を受けたり。其の後宮内技師より、迂回を避けるために更に、一〇、〇〇〇円を増加して、五〇、〇〇〇円(現在の一億九八七〇万円に相当)を負担することを、村は承認できざるやの内意を表明されたり、よって土木委員会に、西谷陳情委員の代表三名を招致して、西谷の内意を確めたるも、決議の貫徹を希望し、右内意承認なき見込みであり、県よりその回答について催促ありたるも、いまだ村内の協議纒まらざるに付き、その猶予を乞うているところである。」
 当時の改修計画では、永野部落を過ぎ、谷を渡ってから、迂回をして、上を通っている旧道につなぎ、それを改修していくことになっていた。
これを現在のように、水槽付近を通り、福地蔵附近の難工を経て、八釜附近で旧道につなぐ、この案を要望したものであり、工事費に莫大な差があったことがうかがえる。
 五月三日、再度西谷の大字会を聞き、議員、組長が集って村と協議を重ねたが、あくまでも要望について譲歩せずものわかれとなった。
 五月一三日の村会で村長は、「現在までの経過をふまえて、今後村として執るべき方針に関し、村会の意見を聞きたい。」と述べた。「四囲の情勢より察するに、伊予鉄は着工の意志薄らぎたるにあらずや。」「本県道問題については、交渉も久しきに及びたる今日、県の調停に委して、速やかに解決すべきものと信ず。」「最善をつくして努力したる結果、取るか捨てるかの場合は大字西谷としても、譲歩すべきと信ずるもまだ尚早にあらずやと思うから、今一段力を入れて、最高最善のところまで当局において進められたし。」と各議員はそれぞれ意見を述べ、またもや村長の東奔西走するところとなった。村長は改修費村負担金五〇、〇〇〇円を極力減額して、早急に議会の一致をみるため、会社と交渉を続ける一方、県の調停を求めて、県庁へお百度を踏み、また武智代議士を動かした。

 相田裁定案 

 村長の努力が実って、当時の県会議長相田梅太良(現在の砥部町原町)の調停乗出しを受け、その裁定案が示された。

          裁 定 書
一、伊予鉄道電気株式会社ニ於テ、久万・梼原線ヲ昨年一二月二三日付ヲ以テ改修許可ノ処、該設計書ノ内、村ノ希望ニヨリ、勾配改良六ヶ処ノ内第一号及ビ、第二号ヲ会社ニ於テ、金壱万弐千圓也ヲ以テ、変更施行スル事。
二、許可道巾九尺ノ処村側希望ニ依リ金四万圓ノ範囲内ニテ、一二尺巾ニ変更拡張スル事。
三、前条道巾拡張ハ県改修終点ヨリ、約千七百米(馬道取付)ヲ金弐万弐千圓ニテ施行スル事。
四、残額壱万八千圓也ハ、前項終点ヨリ、難工事ケ処ヲ除キ連続的ニ拡張スル事。
五、前条工事ハ、県命令ノ施行期間ヲ遅延セシメザル範囲ニテ、野上組ニ追加施行セシムル事。
六、第二条ノ工費四万圓ハ、一時会社ニ於テ立替ル事。但シ元利償還方法ニ付テハ、会社卜村ニ於テ協定ナス事。此裁定書ハ、弐通ヲ作製シ、村及ビ会社へ送付ス。

 昭和 年 月 日(裁定書日付は最終的には昭和一五年二月七日である)

                 愛媛県会議長 相田 梅太良

 県会議長は、解決を容易とするために、この裁定についての覚書まで示した。
            覚  書
一、県道久万・梼原線改良拡張工事に関し、昭和十五、六年度に亘り、県費を最小限七千圓支出せしむる事。
一、村希望の改良線の内第四号は別途考慮の必要あるに付、異論あるやも一委せられたき事。
一、全村計画の道路、大なる支障を来たさざる程度とし、完成せる時は、犠牲者救済の意味にして、相当額の寄附をなさしむること。

    右誓約候也

      昭和 年 月 日(裁定書に同じ)
 
                                 愛媛県会議長

                               伊予郡原町村  相田 梅太良
 
              上浮穴郡柳谷村長 殿

 昭和一四年も暮れんとする一二月二六日の村会で村長は、相田県会議長の裁定案を示して、満場熟議されたいと述べて、引続き二七日開会したが、当日の村会は荒れた。
 当時の議事録には「四番議員、昨日村長ヨリ提示セラレタル相田県会議長調定ニ成ル案ハ、従前村長ヨリ示サレタルモノニ比シ、二万円ノ増額ヲ見ルハ甚ダ遺憾ニシテ、是ハ村長、土木委員ニ於テ村会ヲ弄ビタルモノト断ズ、依テ此上トモ村長、委員ハ、運動ヲ継続シテ、四万円ニテ目的ヲ達成スル様努カセラレタシ、然ラバ議事ニ参与スルモ然ラザル場合ハ議事ニ参与スルコトヲ得ズト述べ直チニ退場ス。時ニ午後二時二十分、村長ハ、「只今四番議員ノ言ニ依ルト、二万円増額ト成リタルコトハ村長、土木委員ハ村会ヲ弄ビタルモノトノ事ナルモ、村長ノ行動ハ時々報告シ、村会ノ承認ノ下ニ行ヒタルモノニテ、何等弄ビタルモノニ非ズ、且又二万円ノ増額モ物価ノ騰貴及道路ノ改良ニ依ルモノニシテ、村会及大字西谷村民ノ希望二副フ為メニハ、止ムヲ得ザルモノナル旨弁明ス。」と記されていて村会ノ一致は、程遠い感じで翌二八日も会議は続き、本問題は解決を見ぬまま年を越した。
 昭和一五年この年は「皇紀二六〇〇年」として祝われた年である。新春早々の一三日、村会が開会されて、相田裁定案をめぐり、いまだ解決なきうちに、会社は改修工事を請負いにしたとして、論議を呼んだ。

九番議員 会社側ニ於テハ、村長交渉ニ何等交渉ナク、県ヨリ認可ヲ得タカラヂキヂキ講負ニ成シタルハ、会社ハ、独断ノ仕方ニシテ、斯ル状態ニナル上ハ、後ニ居ル村民ノ不案ヲ惹起スルトコロアリデアルカラ、会社ノ手段ハ不満ナリ、今回ノ会社ノ出方ハ、会社ハ会社、村民ハ村民トナル態度ニナルノデハナイカ。
村長 会社ノ取リタル態度ハ同感ナレ共、村長トシテ、今迄取リタル経過ヲ思フ時、自分トシテハ反省スル事アル旨ヲ述ブ。
四番議員 本問題ハ二〇年ヲ有スル歴史ヲ持チ、村トシテハ最モ重大事業デアル、之ニ対シテハ相当多額ノ経費モ支出サレテ居リ、私トシテモ、三期半モ本事業問題ニ携ハッテ居ル次第ナルガ、只今マデノ経過ヲ承リ見ルニ涙ガ出ルバカリデアル、此ノ重大事ヲ役場及委員ノ儘セル経過ヲ思ヘバ涙ナクシテ考ヘラレズ、又県ヨリ四万円デ委セ等ノ点、今後村長ノ説明等ニ付キ、責任論言ハズトシテ置ク、私モ二十年ノ間、脳裡ヲ離レタル事ナキモ、現在ノ県ノ認可ニヨリ、会社が直チニ請負シタル点ハ、七百戸村民ノ全ク存在ヲ認メサルモノト考へ、実ニ不満ハ元ヨリ、落涙ノ次第ナリ、然シ事此所ニ至リタル以上ハ、先ヅ二、三日休会ヲシテ、村民ノ意向ヲ確メ、尚熟議ノ上開議サレタキ意見ヲ述ブ。
一一番議員 本件ニ付キ、二ヶ年間ノ運動ヲナシ、其ノ後徐々ニ運動好転シ来タツタルニ、今突然工事二着手スルニ至リタル事情ガ解セラレヌ、今マタ考ヘテ見ルト、村ヨリ誰カ会社ニ対シ、工事請負ニセヌ場合ハ、解決ガツカヌカラ請負スベシト申込タル者アルト思フ、之全ク他ヨリ申込スル者モアル筈ハナイニ付キ、村長ヨリ申シタル外ナシト断ズ。
村長 県庁及会社側ニ対シ絶対申入レシタコトナシ、私ガ申込ンダト申サルハ実ニ迷惑至極デアリマス。之ハ断ジテナイト云フ事ヲ記録シテ置クカラ、後カラ確カメラレタシ。

 一週間の休会をもって一月二一日開議し、村長は混迷する中において、会社に対する交渉、県への協力依頼など、今日までの経過を整理して説明報告し、各員慎重に審議されたいと述べた。しかしこの日も、それぞれ意見交錯して進展をみなかった。

四番議員 村対会社ノ交渉ノ経過ヲ見ルトキ、モー一應村トシテ再交渉ノ上、其ノ成行ニヨリ、村ノ収ルベキ方法ヲ決定致シタシト述ブ。
九番議員 本間ハ重大問題デアッテ、之ニハ相当経費ヲ要シ、経済ヲ考慮シテ、会社ニ交渉ヲ成シ来ッタガ、現今ハ土木、教育共ニ経費ヲ要スル訳ナレバ、先ヅ西谷大字会ヲスルデナク、村全般ノ意見ヲ聞キ、其ノ上本問題決定ノ運ビニ致シ度イ。
七番議員 本間重大事デアル故ニ大字感ヲ去リ、本村一丸トナッテ、最大ノ方法ヲ講ジ目的貫徹ニ邁進サレタイ。

 県庁で村会 

 昭和一五年二月三日、久万・梼原線問題による村の混乱を解決するため、県当局が積極的に乗り出し、県庁へ村会議員全員の集合を求めた。村長は、急をもって各議員に通知した。しかし、当日の朝、それぞれ全員上松した気配あるも午前一〇時県庁参事会室に顔を見せたのは、半数にも足らず五名の議員だった。待てど探せど行方はわからず致方なし、結局出席議員だけでも、千葉土木課長と面談することになった。午後二時十五分、千葉土木課長参事会室に現われて参集を求めたことによる要旨を次のように述べた。

 本日御集合願ったのは、長官(知事)の命により村会議員全員の御参集を煩わした次第である。恐らく村会議員全員を、県知事より集合する機会はありません。要は、御案内の梼原・久万線道路改修の事であって伊予鉄会社との接渉問題で、本問は足掛け四年満二ヶ年余日を経過しており、県としても村の意向を考慮して、本職及び宮内技師より協議した結果、迂回を廃止した勾配は、県道と認定する以上法則に叶うのであって、前の協定書に裁き、使用上不便なきものと信じ認可したるものである。
 本線は九尺巾であるが、待避所を三百米毎につけ、十二尺で待避所のないものより、遥かによく、一二尺巾にしても待避所のなきものは認可なく、自動車の通行は出米ません。本線は待避所を設け、尚堅固なる道路を付ける故、県に於て責任を以て自動車の通行をさします。尚また、本道路完成の上は、県が竣工検査をして受取るのであって決して使用上に不便なしと固く信ずるものである。村において、巾一二尺とするため、四万円を投ずるとの事であるが、右の如く何等支障を来たさず、完全に使用の出来ることなれば、この四万円は、延長なり、又は林道なり、他の有益なる方面へ使用される方が村の最も適切な方法だと思う。
 県自体が工事をするにしても、費用の関係上勾配は理想通り行かず、逆勾配も止む得ぬ場合があるので、現に本線の如きは上出来であると信ずる。尚、会社に於ては、数年間を要する、自分使用の路線なれば、決して悪い事をせず、若し不都合の点あれば、自分で改修して使用するのであって、この完成道路は、他の待避所のない一二尺巾の道路以上の完全なるものである。それに加工拡張する箇所は、必要に応じ、県が県道である以上責任をもって拡張するのであるから、一日も早く完通させ、村民福利を増進するよう考慮され度い。
 若し現下電力問題において、御村に、現在の態度で施工上支障ありとせば、県は強権発動で工事を遂行さすか、会社が中止するかの二ツであり、いずれにしても村は、相当の責任をよく承知してもらいたい。私がお話する点はよくよくお聞取りを願います。
 本件は長官の命であり、只今長官は上京中であるが、本月八日に御帰庁の予定であり、それまでに確答を得て置けとのことであります。しかし、今日は多数の御欠席者あるため、明日再招集で御決定の上、明後日午前中に小職まで御回答下さるよう願います。

 千葉土木課長は時の県知事持永義夫の命によるものであるとして、二時間に及んで県の意向を述べその回答を迫った。村長は翌四日、議員全員を呼び集めて松山市内において協議会を開催したが、一名の議員のみ出席なきまま、千葉土木課長による県の意向を詳しく述べ、事態の切迫したことを告げて、村会を開催することとなった。
 翌二月五日午後三時、県庁参事会室において柳谷村の村会が開催された。おそらく前後を通じて、村会が県庁において開かれたことはないであろう。
 その異例なる村会の会議録を記す。

                   会    議    録
 昭和十五年二月五日本県庁参事会室二於テ、柳谷村村会ヲ開催ス。
             出席者
                     一番議員  西森 義元
                     二番議員  中村 慶弥
                     三番議員  欠 員
                     四番議員  近沢 一美
                     五番議員  鶴井浅次郎
                     六番議員  村上 義春
                     七番議員  西川 茂一
                     八番議員  中村 秀儀
                     九番議員  藤田 順吉
                     十番議員  高橋 数馬
                     十一番議員 永井 百蔵
                     十二番議員 植木 久次
一、午後三時村長高岸勝繁議長席ニ着キ開議ノ旨宜ス。
一、本日議事ニ参与スルモノ左ノ如シ
                      助役  小坂 夘太郎
一、本日ノ会議ニハ特ニ本県々会議長相田梅太良氏ノ立会ヲ求メタリ。
  議長本日ノ会議録署名員ニ左ノ弐名ヲ指名ス。
                     八番議員  中村 秀儀
                     九番議員  藤田 順吉
一、梼原・久万線県道ヲ、伊予鉄道電気株式会社ニ於テ改修スルニ関スル件。村長八本問題ニ付テ、従来ノ経過ヲ述べ、且ツ過日ノ縣知事ノ意図ヲモ体シ、此際豫テヨリ、調停ノ為ニ、奔走ヲ煩ハシツツアリ、相田県会議長ニ白紙一任致サレタキ旨ヲ説明ス。次デ相田県会議長ヨリ、本問ニ問スル斡旋ノ経過ヲ詳細ニ説明アリタリ。四番、九番、十一番議員ヨリ、各々ノ質問及意見ヲ述ベタリ。
一、議長八本問白紙一任異議ナキヤヲ諮リ、満場異議ナク賛成アリテ、県会議長相田氏ニ白紙一任卜決定ス。
一 議長ハ、議事終了ノ旨ヲ告ゲ午後三時三十分閉会ヲ宜ス。右、会議ノ顛末ヲ記録シ其正当ナルヲ證スルタメ左ニ署名ス。

    昭和十五年二月五日
                     八番議員  中村 秀儀
                     九番議員  藤田 順吉

 県庁参事会室に、県会議長の立会を求めて開催した村会は、本問題を相田県会議長への、白紙一任と決し、三〇分をもって閉会した。

 相田裁定再確認

 これによって、相田裁定書と覚書をもって、すすめることになり、村長は早速このことを、関係組長、有志に文書をもって裁定書の内容を知らせた。
 これに対して、郷角、本谷、小村の下三組から、相田裁定案の上へ、さらに一万八〇〇〇円の村費を加算して、勾配を直し、一二尺幅の延長をはかられたい、これが不可能である場合は、三組の地主は土地買収に応じないとの決議がなされ、村長は当惑した。再三にわたって下三組の代表と交渉するも解決せず、二月一四日、一五の両日村会を招集し相田裁定案の再確認を諮り、多数の賛成をもって決するところとなり、これにもとづいて村長は、下三組の地主との接渉を続けて行くことになった。こうした動きの中にも改修工事はどんどん進工していた。

 用地交渉

 地主との交渉は難航しながらも、村長の熱意によって、次第に解決を見るに至った。
 全路線の新設あるいは、改良箇所に、毎日鎚音は響き、建設工事は進捗した。しかし、工事施行については、設計外の止むを得ぬ村負担工事が発生して、七〇〇〇円。請負の野上工業会社より、単価値上の要求を、伊予鉄会社に提出し、村に対して約八〇〇〇円の要求があるなど、村長は予算の捻出に困難を極めた。村負担の四万円については、相田裁定によって、伊予鉄道電気株式会社の立替を受ける方法を講じ、昭和一六年から七年間に分けて、毎年五一八四円六〇銭宛を償還するよう証書を会社あてに差入れていた。
(この借入金残額三万円の処置については、後年における元村長丸石繁頼のエピソードがある。
 昭和一九年一二月、丸石村長と、森林組合代表として、小坂夘太郎の二人は、農林省へ砂防工事の陳情をするため上京した。そのとき、伊予鉄道電気株式会社は日本発送電気株式会社となっていたので、二人は日発本社に趣き、総務部長に面会を求め、丸石村長はこの借金のいきさつについて、久万・梼原線の改修問題を、弁説もあざやかに、長時間にわたって物語ったのである。そうして最後に「この金額を棒引きしてもらいたい。」と懇願したという。
 総務部長のけげんな顔に、丸石村長は「棒引き」とは二本線を引いて消すことで、つまり貴社の貸付の帳簿に記載されている三万円(現在の二四〇〇万円に相当)を消してもらいたいと答えたという。
 総務部長は、初めて聞いた「棒引き」だっただろうか、丸石村長の語るいきさつに感動したのか、結局、高松支社へ手続きをせよと言うことになり、その後丸石村長は、高松支社と交渉して三万円を棒引きにしたという。)

 車道開通 

 昭和一五年一二月二七日、この日は久万・梼原線の歴史上最も記念すべき日である。思えば、明治三五年、西谷往還を馬道へと夢みてから三八年、血のにじむような運動をもって、県道認定にこぎつけた大正一二年からすでに二〇年の歳月がすぎて、ようやく人々の悲願が達成され、西谷への車道開通の日を迎えたのである。これから久万・梼原線は車道の時代となり、徐々に改修されたるも太平洋戦争の勃発によって、古味からの延長はおぼつかず、戦後になってようやく陽の目をみることになり、中久保・横野の人達の熱意と努力によって、林道大野ヶ原線として、開設が進み昭和二九年中久保迄開通した。
 昭和三十三年、梼原、久万線は、県道地芳峠、落出線と変更認定された。昭和三五年より、村道地芳峠線として、開設に着工し、四ヶ年をもって、延長約六キロにわたる難工事を完成し、昭和三九年五月七日、愛媛県知事久松定武、高知県知事溝淵増己の両知事を迎え、梼原村長来米豊稔、当時就任まだ日浅き村長近澤房男の手によって、盛大な開通式が挙行された。この日、峯越林道としての開通ではあったけれども、梼原・久万線の認定から四十余年を経たいま、ようやくにして先人が夢見た車道が、梼原に通じたのである。実質なる久万・梼原線の開通に両村参列者の感慨は一入であった。翌、昭和四○年には梼原・落出線として両県側とも変更認定された。
 県道梼原・落出線の開通は、四国カルスト高原における大規模草地改良事業をはじめ、村の観光開発の根幹をなし、昭和四六年には、主要地方道に認定された。

 国道昇格成る 

 久万・梼原線の最終目標は、国道昇格にある。期成同盟会を結成し、梼原町との一致団結による大運動を展開し、村長とともに、村議会の当を得た運動によって、県道久万・梼原線は、六〇年に及ばんとする永き歴史を秘めて、昭和五六年三月、国道昇格が実現したのである。
 新国道四四〇号線、予土国境を結んで、落出から梼原まで、延々四〇余キロ、これが改良整備の早期実現に向って、梼原・柳谷両町村一体による運動はスタートした。
 重大使命を背にし、新たな決意にもえる村長近澤房男は、五段の碧空に大誦した。

      つづらおる地芳峠にトンネルを

             貫けば夢あり予土の村々