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柳谷村誌

第五節 分権的封建社会の崩壊―河野氏・大野氏の支配は終る

 河野氏の伊予国支配

 元暦二(一一八五)年七月二八日、河野道信は伊予国の初代守護に補せられた。その後、同氏の伊予国支配に、いくらかの消長はあったが、東・中予支配の基盤は確立して、天文一〇(一五四一)年ごろまで約三世紀半に、その支配は及んでいる。戦国期には河野氏の所領は、東予西部から中予北部に亘って、一〇郡に及んだ。此らの諸郡には、すでに城砦を築いて、それぞれの地を支配している国人衆が多かった。河野氏は此らの国人衆を家臣団にとり入れ、それらとの同族的結合により、道後湯月城を本城として、その支配勢力を保持した。
 大野氏の小田・久万支配 

 中世の久万郷・小田郷は、道後湯月城主河野氏の配下大野氏が中心であった。「大野系譜」による初代吉良喜から数えて二八代目の主、直里(弥次郎)が、永亨四(一四三二)年に大田本部及び久万を譲り受けたことで始まる。それ以後数代の間に、土佐津野郷の津野氏の戦いや、応仁の乱を経る期間に、勢力の消長はあった。明応元(一四九二)年に湯月城主河野氏との和議が成立し、河野氏と結縁関係、つづいて久万大除城への転封などによって、小田郷・久万郷に於ける地歩は確立した。

 柳谷地域の番城 

 河野氏の家臣団の一人である大野氏の役割は、土佐勢への対応である。「予陽河野家譜」に、久万大除城築造について、「久万山は伊予土佐両国の境にあって、山高く谷深く峻しい地形をしている。住民も多く、これまで他国の侵入を受けたこともなく、平和な生活を楽しんでいたのに、先年来、土佐の一条氏が兵をくり出して防戦に困難となって来た。そのため道後湯月城主河野氏は、久万山明神村(浮穴郡荏原荘熊庄)に新たに山城を築いて大除城と名づけた。」と記してある。また「大野直昌由緒聞書」に「小剛五千石(大田郷)の地は日野・林・土居・安持の四人で支配していたが、土佐の長曽我部元親が、度々侵入して苦しむようになった。………さすれば宇津の大野殿をおいて外にない。…久万十八家…ら河野氏の家臣に申し送ったところ、みな喜んで賛成したので、直家を大除城に迎え入れ、何れも家来として忠誠を誓った。」と記してある。
 この信頼に応えて、大野氏三五代直昌の代には、領内要所要所に、隈なく城砦を築造した。一族はじめ重臣四八家を、番城々主として配置して、それぞれの任に当たらせている。わが村にも三つの番城が配備され
た。
 一 松岡城 中津岩川 重藤数馬時保。 二 天神森城 西谷横野 山下金兵衛俊朗。 三 城ヶ森城(一名大成城) 西谷猪伏(あるいは西谷小村) 中川主膳正直清。
 時は戦国末期(四三〇年ばかり前)である。永く都や地方の里方から遠ざかって、泰平安穏を楽んでいたわが山村にも、異様なさわがしさが訪れたわけである。小高い丘上に城砦が築かれ、本城から差遣わされた城主が、家臣を伴って入城する。村びとの中からも要人として選ばれ、招じ入れられた者も居たであろう。村びとには、不気味な時代の到来が感ぜられたであろう。
 昭和五三(一九七八)年戊午七月二二日、大成城主中川主膳正直清公一三代の孫南堂こと源悟氏、遠つ祖の居城浮穴郡西谷村猪伏(一説)大成城趾を訪ねられ、つぎの詩歌玉篇に無量の感懐を託せらる。

      訪大成城趾
  豬倪山頂大成城  征旗堂々意気盛  来訪当年争戦跡  栄枯如夢聞老鴬
   反歌 たたなめて猪伏の山の城趾に 遠つ御祖の想ほゆるかな

 なおその節、つぎの史料の提供があった。

 中川記に大成城、河野家譜に大成城中川主膳旗下弐拾騎と見え、予陽郡郷俚諺集その他の郷誌には「城が森城」「猪伏城」等の記録あり。中川家の記 中川主膳正直清則於弘治二内辰(一五五六年)(四二七年前)春三月在伊予国道後湯月城降為 河野弾正少弼通直之被官視為久万山大除城之従属寄騎転駐該国浮穴郡西谷村之大成城」云々。

 土佐一条氏の久万侵入を撃退する 

 永禄一一(一五六八)年一月、土佐一条氏の家臣ら、五百余騎を率いて久万山に侵入した。大野出羽守直昌は、尾首・船草・山内・明神・梅木・渡部・越智ら重臣らと二百余騎を以て応戦した。奮戦防禦に努めて、土佐勢をみごとに撃退することができた。この戦に功を立てた明神清右衛門、梅木但馬等は後年、柳井川村・久栖村の庄屋を仰せつけられている。

 笹が峠の戦 

 大除城三代目城主直昌と弟直之との間不和となり、土州長曽我部元親が、両者の調停に関わることになった。天正二(一五七四)年八月のことである。直昌・元親両者交渉の果、伊予土佐両国境の笹が峠に於ての、両将会談の約定となる。八月二五日定刻両将の出場会談となっていたわけであるが、定刻に至って長曽我部側の伏兵戦略のため、合戦となった。激戦の末、大野方の討死は多数に上り、将直昌は、土佐勢の大勢を崩して帰城する」とはできたが、この不慮の合戦に、数々の勇将能侍を失ったため、後年の衰運を招くきっかけをなすに至ったものと思われる。この合戦で、天神森城主山下金兵衛俊朗は討死したのである。

 主家の衰滅により牢々の身に 

 やがて、四国全土は、羽柴筑前守秀吉の平定統一するところとなる。天正一五(一五八七)年、時の道後湯月城主河野道直は、小早川隆景の勧めに従って、湯月城を開城、隆景の出身地芸州竹原山田に落去した。同年九月一五日行年二四歳の若年を以て卒去とある。ここに中世四百有余年、伊予国随一の名家、支配者として、分権の華を謳歌した河野氏も、遂に滅んだのである。湯月落城後、大除城主直昌もまた、時の流れを悟り、主家に随って開城、同じく芸州下山田に落去したのである。やがて直昌は、天正一七(一五八九)年七月二六日行年六二歳で彼の地に卒去とある。
 さきの土州一条氏の侵入以来、前後七回に及ぶ土佐勢の侵攻に対して、わが久万山勢はその度ごとに、僅かな守勢を以て、天険を利し、勇猛果敢な反撃により、土佐勢をして、イブシ、イブシ(伊予武士 伊予武士)と恐怖せしめる戦蹟を収めてきた。が、今や天運利なく、両主家の衰滅に遭うに至る。大野配下四八家四一城の城主を始め、その旗下たちは、みな下城牢々の身とならざるを得ない。城を焼き、下城して、久万・小田両郷にそれぞれ帰農し、牢人として余生を送る。わが村にあった番城の城主たちのゆく末もまた、その例に洩れず、落日傾城の運命を辿る。天神森城主山下金兵衛俊朗は、さきの笹が峠の戦で討死。松岡城主重藤数馬時保は、天正二(一五七四)年病死。城が森(大成城)城主中川主膳正直清は、下城後、荏原西町城主遠江守の嫡子となり、面河村草原で生を送るとある。いずれもさきの南堂氏の玉篇の結句にある「栄枯如夢」のとおり、栄枯盛衰する事々は、「くろかわの刳る音なひ」と、「古城趾の松籟」のみぞ「そのまこと」を知れりである。この間にあって、わが柳谷人は、自分たちが試みてきた「文化化のしぐさ」の事々を胸深くたたみ、ことばを超えた温もりを守り続けるのである。 世は、島本(重農)の統一封建社会の夜明けを目ざし、うなりを立てて大きく動いてゆく。