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柳谷村誌

第四節 焼畑山村社会の形成

 自耕自給

 農耕生活が進むにつれて、人々の群れ合い、社会づくりも進む。群れ合いの規模はだんだん大きくなってゆき、まとまりも強められていった。小さな集団国家群が、つぎつぎ統合されて、大きくまとまり、わが国も一つの統一国家のしくみに入っていった。都が定められ、中央政府もつくられる。中央と地方を強く結びつけねばならない。地方制度・土地制度が樹立される。財政の必要から、貢租制度が定められた。土地が提供され、それを利用することによって、民衆生活の基礎が固まってゆく。生活が向上してくると、文化の香りもぼつぼつ漂いはじめる。しかし進歩の足どりはにぶい。文化の香りが漂うのは、ごく一部の地域に限られていた。社会の制度や、文化の恵みに浴することができるのは、貴族・豪族等一部の人々に限られる。ほとんど大部分を占める庶民・農民は、貧しい農奴の生活に生を託していたのである。中央・地方を結ぶ官道も、民衆の生活をうるおすものではない。地方国府間の連絡と、地方貢租物を中央に届けるためのものにすぎない。いかに都域・地方平坦地域に住んでいても、貴族・豪族の生活に奉仕する民衆の生活には、文化は香らなかった。土地を相手にする農耕民衆の生くる喜びは、自ら耕してその酬いを受け、それを食って自足する自作農民の生活にあった。しかしこの頃の自作農民は、ごく僻地農民の一部に限られていたようだ。このころの伊予の国では、王朝期の班田制や条里制、国・郡の制度や国司・郡司任命の跡を見ても、中世に入ってからの守護職や地頭職の変遷、二二箇所に亘る荘園の分布の跡を見ても、我々の久万山地域では、それらの諸々の定めを、偲び確かめられる跡が見られない。ただ一二世紀末から一六世紀末にかけて、ほぼ四世紀に及ぶ河野氏の支配期に、河野氏寄進の社伝がある。それによって文化地域からの注目と影響を伺うにすぎない。大宮八幡大明神・早虎大明神が建立されたのは一七世紀はじめである。河野・大野の支配勢力の衰滅が一七世紀だから、この間略一〇〇〇年間における中央や地方文化地域からの影響は、ごく僅かだったと言えないだろうか。
 諸種の貢租や、それに類する献上物などのきまりはあったものの、ほとんど課せられない地域として、終始したものではなかろうか。土地については、不輸租権が伴っており、一度開拓して任意占有すれば、不入特権が自生していたのではなかろうか。里とはいえ、文化地域とはいえ、道前・道後両平野はじめ、田所郡で農奴の労働を強いられている人々の眼には、わが山方の村は、魅力ある土地に映っていただろう。この山村は、自ら耕作して食う太平自由の天地、自作の生甲斐を楽しませる楽土に見えたに違いない。だからこの農耕的自給社会期のわが村の人々の生活の実際正味の姿は、次のような生活の姿に、相通ずるものと思われる。中国史記『帝王世紀』に、「帝堯の世は、天下大和し、百姓無事なり。八九十の老人あり。壌を撃って歌う(田畑をうち耕しながら歌っている。)哺を含み、腹を鼓し(腹一ぱい飯を食べ、出張った腹を撫で乍ら)『日出でて作り、日入りて息う。井をうがって飲み、田を耕して食う。帝力なんぞ我にあらんや。』(日が出てから田畑を作り、日が暮れたら休む。井をほって水を飲み、田畑を作って、腹一ぱい食っている。何不自由ないくらしだ。べつに政治のおかげというわけでもないよ。けっこうなことよ。)

 山村形成

 昭和四〇(一九六五)年公布施行の山村振興法では、山村を、交通条件・経済的文化的諸条件・産業開発程度・住民の文化水準などを基準として定義しており、具体的には、林野率・人口密度等の数値で限定した市町村単位を、山村の対象としている。過疎法や農水統計などにおける把え方も、それぞれ定められた基準で、対象や区分設定がなされている。我々の先人がこの地に住みついて、郷びらきをした。もとより山村形成という大きい営みである。当然山村という地域づくりに違いはないが、先の法や統計等に用いられた数値が、当てはめられるような対象ではない。住みつく人数は不定であり、自給生活を支える生業も亦、限られたものにすぎなかった。では生業とはどんなものだったか。良質の材料が豊かに得られるところに、住みついたのは、木地師である。数はごく僅かで、今の名荷川の上流の木地で、ながく生業にいそしんだ。その余の大部分を占める定住者は、すべて焼畑耕作に終始した。それが次の期の焼畑経営発展の素地となり、今日の切替転移(食料作物→三椏栽培→植林)経営の源を形成したものである。

 焼畑景観 

 四国山脈西部は、焼畑耕作の適地として、定住当初から焼畑化されてきた。峰高く渓深き褶曲の斜面は、焼畑として広い場を与えてくれる。自生植生した樹林の落葉は、永年の推積によって、土壌を肥沃にしている。そして伐倒し焼却してできた草木灰は、植栽植物の身肥としてよく効く。斜面の傾斜も、四〇度まで焼畑として耕作できるから、休耕→植栽→再利用の循環に、広い地積が確保できる。焼畑は畑拓きして植栽する。作物の種類や輪作・切替等の都合で、春焼き・夏焼きの季節区分がある。この期の作物は、商品化作物(椿や三椏)はなくて、ほとんど食料目当ての普通作物であった。植栽する作物の、性質や蒔付・収穫の季節関係で、焼畑・切替畑を次のように呼んでいたようだ。きび山=王蜀黍(大小豆間作)→王蜀黍(大小豆間作)→王蜀黍(大小豆間作)。そば山=そば→大小豆(あるいは王蜀黍)→粟。麦山=小麦(あるいは裸麦)→王蜀黍→王蜀黍。稗藪=稗→大小豆→粟→大小豆→粟。この期は、焼畑山村の形成期とも言うべく、焼畑利用の目的は、食料自給の確保にあって、次の統一封建社会期に入ると、きびしい石高設定のもとに、御物成納皆済(おねんぐものおさめずみ)の重い責を負うことになり、焼畑利用目的の面目は一変する。

焼畑景観卓越地域

焼畑景観卓越地域