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柳谷村誌

第三節 定住

 み ち

 村社の建立時期、官街道の開廃変遷、国ざかいの民間山道の開通などから考えてみると、わが村の郷びらきは、およそ次のようであっただろうと思われる。四国山脈(主に三坂越え)を越えて、久万川・仁淀川の流れに沿って南下してきた人々が、標高四〇〇~五〇〇メートルぐらいの河岸段丘や、南向きの緩斜面(地名は多く○野とつけている)で、水の便のよいとこを選んで住みついたものと思われる。まず街道の駅家だったらしいマツギ(馬着・馬次・馬継)が、タツノやオオクボダニと共にホンムラとして開け、街道に沿ってカワマエ・コウジ・ヤスバと開けていったのだろう。これらの郷びらきがほぼできたころ、これらの郷びとは、川魚のゆたかな川に沿う郷ー梁場の続く川に沿う郷の生活を称えて「梁結い川」と地名づけしたものだろう。
 陽当たりのよい段丘カワノウチに住みついた一群れが、郷村の角になって、中津山麓の陽当たりよく、傾斜の緩い開田化(中田・窪田)されるところに郷びらきが進んでいった。「ええとこじゃ。いつまでも住もうぜ。」久栖の里の地名は、この喚び合いから生れたもの。なお官街道筋のマカド(馬門)から、タノモトに下りた一群れは川を渡り、陽当たりつづら川叩・稲村・鉢と群つくりし、先に開けていた郷(田どころ)とつながる所に、コエノトオやニシムラが開け、土州と通ずる国境に、イワガワの住みつきがはじまったものだろうと思われる。小松谷のささやきも、地吉越えするコママツタニ(駒待つ谷)と意味づけたら、田どころ里久栖のひびきに融けて、胸和むわけ。
 では黒川の流れに沿って拓けていった群れ合いを考えよう。さきの津野郷と瀬戸内を結ぶ民間山道のうち、幹線として最も往来が頻繁であったのは、道後―久万―落合―深山断層線―大野が原―姫草越―四万川の経路であろう。これに次いで往来が多かったのは、旧街道からマツギで分れ、黒川に沿って遡り、支流地芳川に沿う地芳越・唐岩越であっただろうと思われる。これら二本の中間にできたものは、大川嶺―横野断層線に沿う、今日の落合―大川―本谷―名荷のつなぎ経路であろう。以上三つの路線上の郷びらきは、一つ郷角・木谷圏・二つ名荷圏・三つ古味圏ではないか。ゴウカクは旧西谷村が占める一つの圏域の入口(門・角)で、ホンタニはさきの梁結川村のホンムラ三組に類する、郷びらきの拠点であったことを物語っている。コミという郷は、黒川・高野川・高野本川が合流するところだから、多くの流れが混むということのほか、多くの人々が込むところ、ゆききするところだと物語っているようだ。
 オオナルというのは、名荷川が黒川本流に合流する比較的なろいところという印象で呼んだものか。これら三つの節目に繋がる川に沿って、中畑・菅行や高野・猪伏・そして横野・中久保の群合いが、地形や耕地びらきの条件をふまえて、生まれてきたのであった。これら黒川の流れに沿う郷びらきは、官街道に沿う郷びらきに較べて、何百年か遅れたものと思われる。

 永い空白

 村の郷びらきは略推測できるが、移動生活期に、定住生活期が直結したとは考えにくい。二つの期の間には、かなり永い空白期があったのではなかろうか。千二、三百年ほど以前の奈良朝期に、伊予道前後平野における農耕は、既に今日のものに近い農具(馬具をはじめ、鋤尖・鍬・鎌など)を使っていたらしいから、それら里方の人々が、つぎつぎに南予や久万山の山方へ移って来たのであろうから、上黒岩岩陰遺蹟期の採収生活から、王朝期の定住生活の間には、かなり永い空白期があったことが考えられる。

 土地えらび

 里方から山方へ移り住もうとする人々は、作って食う自給意欲に燃えていただろう。だから作るための第一条件である土地のことがすべてであっただろう。未だ拓かれていないゆたかな空間から、どんな土地を選ぼうとしただろうか。どんな土地が人々の願いに適っただろうか。そこに住みつこうと決意させる土地条件を、わが村の土地空間が持っている要素から拾ってみる。
 第一は土地の自給性。土地を占有して利用すると、それ相応の見返し(負担)が要る。見返しが多ければ土地の自給性は減る。今日では租税、遡っては各種の貢租徴収があったが、定住期当初のころは、その見返しはゼロに近かった。
 第二は土地入手の難易度。そのころ所有権云々はない。畑を拓いて作った事実が優先する。
 第三は土地の広積性。土地は広くなければならない。農耕をする人は大勢である。人々が年間働けるだけの広さが要る。共同作業のためにも、共同防衛のためにも、村つくり社会つくりをせねばならない。大勢になり生産性が進むにつれて、農耕地は不足してくる。村郷が崩壊するのを避ける上からも、土地は広くなければならない。省みて、わが村の褶曲は深い。
 第四は土地がもつ農耕利用度。農耕利用度は高いことが望まれる。集約度も高いこと。焼畑つくりして、できるだけ早く常畑化できること。切替畑としては、その植生力も高くあって欲しい。更に水利に恵まれ開田できることも望まれる。
 第五は居住性である。そこを生活の拠点として、お互い群合って郷つくりをする。だから集落として良い条件でありたい。いわゆる住み心地よいとこ、快度溢れるとこというわけ。陽当たりはどうか。傾斜はどうか。日かげの具合は、水の便は、住居つくりの資材入手は、等々。
 第六は往来性。人が住みつく。群れ合って郷ができる。村は一つのひろば。ひろばとひろばの間に、みちが踏み開かれる。ひろばができて、みちができるのゆき方が普通だが、新しい郷びらき(住みつき)は逆の場合も多い。選ぶ所が、交通地位の高い経路とどんな関係にあるかが考えられる。交通地位が高い官道・街道と、縁の近い所か、縁の遠い僻地なのかという点である。
 第七はその土地の生産性。さきの条件と重複はあるが、洩れを拾う配慮と総括りの意味で。温度はどうか。耕地としての陽向き・傾斜・標高・気温変化等。湿度はどうか。年間・月々の雨量は。次に土壌はどうか。地形が略できてからの、自然現象の綜合したエネルギーは、個人の体力に相当する。災害性はどうか。冷干害のおそれはないか。風水害・病虫害の心配はどうであるか等々。これらのほかに、細大たくさんの項目が考えられよう。これらの項目から考えられる、わが村の特質の綜合されたものが、わが先人をここに住みつくことを決意させたものであろう。作って食べようという自給の願いを、かなえてくれたのであろう。
 こうしてわが先人は、柳谷の天地を住まうところと定めた。広く豊かな大自然である。この大地に、文化化の一鍬一鍬を打ち加えた。くろかわの刳る音を訓として。
 願いに赫く眼差しを交わし合って、群れ合い隣り合い、郷びらきは続けられる。焼畑びらきの斧のこだま。山焼きの共同作業。五穀豊穣・村郷安穏の願いは、信仰の講を生み、やしろが村郷のひろばとなって、村郷の結ばれは一層かたく、温かいものに育っていったのであろう。ここに柳谷の歴史が始まり、黒川文化は、地道な歩みを今日に伸ばし来ったのである。
 この土地への住みつきが始められた村の始まりのころから、生活の手段とした土地の、利用度を「石高」で計算するころ迄、凡そ一〇〇〇年位であろうか。この一〇〇〇年ぐらいの期間を、農耕的自給生活期(焼畑をつくり、食料作物を作って食べ、自分たちで生活を切盛する社会)と区切りづけをして、そのすがたを考えてみよう。

土地えらび

土地えらび