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柳谷村誌

第三節 気象現象

 柳谷地塊は、果てしなくひろがる大気中に生まれ、そして息づきつづける。地塊の上層部を通して、大気を体内に摂り入れて体を養う。その活動がもたらした不要な廃物は、大気に送り返して、その浄化を託する。この代謝のいとなみを我々は呼吸作用と名づけ、柳谷地塊は「気象現象」と呼ぶ。

複雑多様な気象現象

 我々の呼吸作用は、略一定したリズムで、ほとんど無知覚に運ばれる。極めて静穏な活動である。しかし柳谷地塊の気象現象は、構造と機能が大きく、一二六一〇ヘクタールの全地肌面に亘っての活動であるから、その現象は複雑多様であって、大気のいのちのいとなみは力動的である。(イ)お天気伺いから台風の驚き迄ひろがり、天気・天候・気候・気象など、そしてそれぞれの異変と呼び方はさまざま。(ロ)陽光・雲・風・雨・雷・霧・霞・靄・霜・雪・雹・霰・龍巻・台風と、千変万化して現われる。(ハ)それらのすがたを、気温・気圧・湿度・風向・風力・雲量・雨量・積雪量など、数値でとらえる。(ニ)風害・水害・雪氷害・凍霜害・冷害・干害・霜害等、それぞれの防災について具体的に考案させる。(ホ)寒暑・冷温の体感から、健康・建築・太陽熱・水資源・生物・文明・農林業経営・電力対策まで、それぞれのもつ影響力と、それぞれとの関係は強大である。真に気象現象は力動性のはたらきをもつものである。      

 日照―気温

日照―気温は、すべてのいのちあるものの発生―持続―成長のみちすじを支える第一の要因に考えられる。中津山山塊・四国カルスト高原からの、支脈の走向・標高差・傾斜が、陽あたりに大きい影響を持つ。柳谷地塊の北と南の脊梁山系・西の高原から東走する支脈、これらにほぼ並行して東流下する河川谷沢系などによって区画された陽当たりと陽蔭の配置。略、南斜面の陽当たりに、集落・水田・常畑などが分布し、陽蔭の北斜面に、保水・好湿の美林が充ちている。
 標高差による気温差も大きい。二五〇メートルの旭と八〇〇メートルの中久保とでは、五~六度も、国道三三号線沿いと、四国カルスト高原とでは一〇度以上も違うであろう。
 第2表の「気温観測記録―松山地方気象台観測」は、昭和三六(一九六一)年から同四五(一九七〇)年まで、一〇か年間、美川観測所(わが村の柳井川川前地区岡の宮地点に相当する所)の観測記録の要録である。わが村の気温を考えるに当たって、信頼できる数値ではないだろうか。

風―気圧―台風

地肌の標高の高低は、水の流れを起し、気温差―気圧差は、大気の流れ―風を生ずる。起伏の大きいわが柳谷地塊では、峰すじ谷すじの間の気温差は、時々刻々高低変化する。したがって、それぞれの谷沢流域では、いつも風が生れて流れつづける。山風・谷風と呼んでなじみ合う。そしてそれは、昼と夜、夏と冬でその向きを交互に変え、その変わり目に、「凪ぎ」という穏やかなたたずまいをかもし出す。また、中津山山塊と四国カルスト高原を骨骼とする柳谷地塊は、太平洋・瀬戸内の海面に相対して、常にそれらの気温差―気圧差に、密接なかかわりを持ちつづける。カルスト高原の空に雨雲漂うと、黒潮からの霧さめが訪れて、カルストの笹原を騒がせ、大陸寒気団がやや南下を告げると、北からの季節風は、忽ちに中津山頂とカルスト高原に清楚な雪化粧を施す。しかし、四季を通じてみると、この地塊に吹いてくる風は、北西風と南西風が一ばん多いようである。一般に、朝夕・昼夜・季節の風については、我々柳谷びとのくらしとのかかわりに、ある調和が保たれている。しかし我々の予測を超えて、突然の衝撃を与えるのは、台風の襲来である。
 年間の台風襲来のコースは、時期により略三つに分けられる。六月以前の前期は、西に偏して北西進又は北進して、中国方面へ、一〇月以降の後期は、小笠原諸島以南の洋上を東進して洋上で消滅する。ともに我国への上陸コースではない。それらの中間の七~九月が、台風の通過又は上陸コースとなる。第38図の「台風の通過度数図」を見ると、わが柳谷地塊は、北緯三二度線や三四度線・東径一三二度線と一三四度線を、それぞれ対辺とする方形内に位置する。したがってこの方形内は直接的な、周囲の各方形内は相当程度の影響を被るものと読みとる。次に第3表の「台風の上陸数表」を見よう。上陸数年平均三・八度約四度中一・二度は四国上陸した数と見る。わが柳谷村は、太平洋側上陸地点に近い。上陸した台風は、洋上のたくましい勢力を保持したまま、地塊のカルスト高原に、風雨の塊を運ぶ。コースを西側・東側いずれにとったにしろ、地塊に向ける風向が正反対となるだけで、置いて去る風雨の塊は同じである。地塊は一~二昼夜、強烈風・豪雨の演出に曝される。山肌・川辺のいたみ、道、橋のきず、村びとが地肌に托した「育てもの」のそこない等が、台風一過後の日ざしに現わされる。この大地に定住して以来、年ごと繰返した柳谷びとの心痛である。とは言え、この災いもまた、一つ一つある力を蓄えてゆく手掛りともなってゆくのである。

 雲―雨―雪

 標高の大きい山塊・高原を骨骼としている柳谷地塊の、雲との交わりは深い。地塊・高原は雲が走り、霧・靄に包まれがちになる。雲は雨をよび、山頂の冷気と和して雪をとどめる。雲の走り、霧・靄の厚みで、村郷の天気を予測する、やなだにびとの生活知恵はすばらしい。
 西南日本の中央構造体で区分されている四国太平洋側の高知市、瀬戸内側の松山市、構造線地帯のわが柳谷地塊、これら三地点の降水量の比較を試みよう。世論は高知市を筆頭と考える。事実はわが地塊を筆頭に据えている。明治二三(一八九〇)年から、昭和六(一九三一)年まで四二年間、松山測候所委託の美川観測所は、降水量を毎年二〇〇〇ミリないし二五〇〇ミリと記録している。なお最近のものとして、昭和一〇(一九三五)年から同四五(一九七〇)年まで三五年間の降水量(第4表松山地方気象台観測定降水量記録表)年平均二二一三ミリ、四国電力KK面河電力区観測定の、第5表昭和四〇(一九六五)年から同五七(一九八二)年まで一八か年間年月別降水量表では、年平均二一七〇・八ミリ、二四七五・八ミリメートルを記録する。いずれも先の四二年間の数値に合致しており、多降水性の信頼度をたかめている。また第6表の霜・雪等についての記録によって見ると、降水量の多量性に準ずる多様性をはっきりと感得することができる。
 以上の諸観測から、力動的なあわただしさを感じさせる中にあって、わが柳谷地塊は、穏やかな息づきをつづけている。秋が深まり、牧場からの牛共の帰宅が終ると、高原は霧氷をつけ、初雪の淡化粧をはじめる。そして、さつきやぶなの群落は、くる年の美粧を約して、つつましい冬ごもりに入る。雪積る峰すじ・谷すじに沿って延びてゆく林道の節目は、変わってゆく地塊に、あすの栄えを偲ばせて、安らいだ佇いをつづけていく。         

 天気予兆へのねがい

 あすを意識するいのちたちにとって、あすを支えるものとしての関心は、天気である。あすの意義づけはあすの天気が、夜明けて迎えた今日の確かめは、今日の天気が支配する。人々はいち早く、天気を生きる証しの座に据えた。ここで、天気の予兆を知ろうとする強いねがいが芽生えた。予兆を知る科学の萠しは、わずか三世紀ほど前からである。予兆の手掛りを、生活の知恵を利ぐことに求めるほかはない。相手は天気を支配する具体物への注視である。雲・風・大気の冷温等々。その状態の目撃と体感、極めて直接そのもの。予想と現出の一致不一致の経験を、大切に積み重ねつづけた。この真剣な試みが、それぞれの生活圏における、気象予兆の俗信俚言となって、その地域のくらしの証しとなったのである。
 わが村にも、天気についての俗信俚言はずいぶんたくさんある。北九州大の民俗研究班が五五ばかりヒヤリングしてくれている。このことについての詳細は、民俗文化編にゆずる。
 二〇〇年程前から、気象現象測定器具がぼつぼつ考案され、天気予兆を知る歩みが始まった。つづいて、等圧線発想から、「天気図」つくりが始められ、観測々定数値の図表化が進み、「天気予報」という行為が、生活情報の世界に大きく活動を開始した。今日、気象学の学的成長、観測々定技術の跳躍的進歩・気象現象関係機関の整備・情報メディアの発達等々、それらの綜合されるところ、「天気予報」は完全に生活面に大いなる地歩を確保した。今後、技術と精度はますます高度化されてゆき、村びとの気象現象との和解調通の微笑が窺えるのも、さして遠くないものと思われる。

昭和36~昭45 10か年間 気温観測記録表

昭和36~昭45 10か年間 気温観測記録表


陽当たり陽陰分布図

陽当たり陽陰分布図


昭和15~同44 30年間台風の通過度数図

昭和15~同44 30年間台風の通過度数図


柳谷地塊に吹く恒常風々向図

柳谷地塊に吹く恒常風々向図


昭和15(1940)より同44(1969)まで30年間 台風の日本上陸数表

昭和15(1940)より同44(1969)まで30年間 台風の日本上陸数表


昭10~昭45 35年間降水量記録

昭10~昭45 35年間降水量記録


昭和40~57年 18か年間 年月別降水量表 1

昭和40~57年 18か年間 年月別降水量表 1


昭和40~57年 18か年間 年月別降水量表 2

昭和40~57年 18か年間 年月別降水量表 2


昭10~昭45 35年間 霜・雪等観測定記録

昭10~昭45 35年間 霜・雪等観測定記録


昭36~昭45 10か年平均 天気現象日数

昭36~昭45 10か年平均 天気現象日数