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美川村二十年誌

六、伊藤幾太郎(一八八九~一九七三)

 一八代村長、明治二二年一一月二四日、現温泉郡重信町志津川に伊藤嘉吉の長男として生まれたが、どのような理由があったのか四歳のとき一家は黒藤川に移り住んだ。やがてまた七歳のとき西之谷へ移った。
 当時の食事はとうもろこしが七、八分はいった粗食であった。もっともこれは彼の家に限ったことではなく久万山はおしなべてそうであった。一七歳のとき教育者を志して久万町の準教員養成所に入り、二年を過して久主尋常小学校の準教員となった。家計不如意の中から出してもらった学資を安い給料から全額両親に返すという細かい心遣いをしている。また教員としての学力不足を感じ、改めて師範学校に入学して卒業、改めて教壇に立った。こうして一三年間、中津・柳谷・仕七川を歴任し、校長として精励した。
 父の死後は家庭事情から教員生活が続けられず家業に専念した。昭和七年に人柄を見込まれて収入役となり、二期つとめて助役、やがて終戦直後の混乱の中で村長として村政を見たが僅か一年余で退いた。晩年には教育委員長もつとめた。終世、孔子のいう「修身斉家治国平天下」を信条として身を処し、昭和四八年二月、八四歳で死去した。