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美川村二十年誌

四、宅宮長三郎(一八八六~一九五七)

 一一代村長、明治一九年二月一〇日、黒藤川の宅宮寅吉の長男に生まれた。青年時代に弁護士を志して広島の法律学校に学んだりした。
 一九歳のとき役場書記となり、明治四二年収入役、大正七年助役、一二年に村長になった。彼の村長の期間は二年そこそこであったが、その間に彼は黒藤川の人々の古くからの夢であった「中津大橋」を架橋している。
 これまで黒藤川の人達は渡し舟を利用していた。渡し舟は不便である。面河川はしばしば大洪水となり対岸との交通は途絶する。急病人が出たり急用の出来た時はどうする事も出来ない。村人は古くからこの地に生まれた宿命と観じていた。彼は何としても橋をかけねばならぬと考え、設計・資金計画を立て、村民の賛同を得ることに努力した。当時としては途方もない大事業だった。
 大正一二年に着工し、一四年一一月一四日に完成したこの橋はピーアの高い鉄筋コンクリート造り、中央部は朱塗りの鉄骨アーチという県内でも珍らしい長大な美しいものでこれによって中津村が受けた恩恵ははかり知れぬ大きなものであった。
 彼はその後、昭和一四年から二〇年まで六年余、収入役にかえり咲いたり、養蚕実行組合長として長期にわたり養蚕振興につとめ、また信用組合理事・会長などの役職について経済発展に多くの功績を残し、昭和三二年八月一一二日、七二歳で死去した。六男覚は道後中学校を最後に教育界を去り、松宮産業社長として活躍している。