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美川村二十年誌

一、大寂寺と長者屋敷

 頼政の母は伊予の浮穴四郎為世の孫、河野氏長者親孝の庶兄寺町加賀守宗綱の女で、源仲政の妻となり頼政を生んだと伝える。
 頼政は天下無双の弓取りになり浮孔郡の中津を賜り、久栖村(久主)に館を築き、城代土岐・由井の二士に母を護らせた。
 母親は頼政の出世を頼って二箆に住み、弓矢をつくって都におくったり、二箆の奥にある赤蔵ヶ池で毎日水垢離を取り神に祈った。
 二三日目の満願の日に朝早く起きて池へ行き、いっものように水垢離を取っていると、水面にうつった姿は自分ではなく、頭は猿で、胴はとら、尾は蛇という鵺になってしまったのである。それからというものは、誰もよせつけず小屋に住んでいたが、息子にあいたい一心から母親の鵺は大空にむかって大きな息を吐きつけると、空いちめん白い霧になった。霧で姿をみせないようにして、大空をとび、都にむかった。
 頼政に会おうと思ったが、今では鵺の姿になっているので会うことができない。母は毎夜のように頼政の主人の屋敷の上に姿を現わし怪しい声で鳴くので、頼政の主人は、うなされてついに病気になってしまった。
 「だれか退治をするものはいないか」とふれを出したので、大勢の家来が我も我もと弓を射たが誰の矢にもあたらない。母親は我が子の出世のために、頼政に射られてやろうと考えた。ある雨の降る晩に頼政が矢をつがえて待っていると、屋根の上に鵺が姿を現わした。ねらいさだめた頼政の矢はみごとに鵺の目と目の間にあたり、しとめることができた。
 それからというものは、主人の病気もなおり、頼政はほうびに土佐の国をあわせてもらった。
 頼政の館趾と、母を祀る菩提所、大寂寺は今の中津小学校にあったが、昭和二二年の大火で大寂寺は焼け、学校のすぐ上に新しく建造されたが、そのときに頼政の位牌や、その他の遺品も焼失した。
 大寂寺は治承四年、源三位頼政が母の冥福を祈るために創建した寺という。頼政は清盛の横暴を見て、以仁王を奉じて兵をあげたが、平氏の軍の追撃をうけて防ぎきれず力つきて自刃した。
 ところが種々の風説が伝えられ、王といっしよに吉野に逃れたとか、子の仲綱と奥州に走ったとも伝えられ、頼政の墓も、東西所々に散在している。この地方の伝えによると、家臣井野早太が主君頼政の位牌を久主に持ち帰り、大寂寺に安置したという。焼失した位牌の表には「大寂寺殿従三位土岐清源泉公大居士」とあり、裏に治承四年四月五日とあったという。寺の西方に頼政の墓所があり、ここを御所と称している。大正八年一一月に中津村在郷軍人会は、武士道を鼓吹するために、大寂寺の表庭に「土岐源三位頼政公之碑」と題する記念碑を建設した。
 頼政の母の住居跡を長者屋敷と伝えられている。二箆の木地部落の大野正美所有の松林の中にあって、現在井戸わくの石が残っているに過ぎない。もう一ヶ所は、長崎部落の養鱒場前にあるが、これも井戸のみ残っている。
 頼政の母は、水垢離をとるようになってから木地に小屋を建てて、下にはおりなかったという。