データベース『えひめの記憶』
美川村二十年誌
二、村高・戸口・年貢率
享保一八年(一七三三)の頃の数字を示したと考えられる「久万山手鑑」によって、各村々の実態を記しておく。
○沢 渡 村
石高 九三石七斗八升二合(一一町八反)
田 一一石二斗(八反)
畑 八二石五斗八升二合(一一町)
家数 五二軒
人数 二三一人(男一〇八人、女二一三人)
牛馬 一二疋(牛四疋、馬八疋)
年貢 享保一八年 四割一分
久万山は寛文七年(一六六七)から延宝元年(一六七三)までの七年間、元禄六年(一六九三)から享保一〇年(一七二五)までの三三年間は定免といって年貢は一定であった。この村は前期では四割三分、後期では四割五分であり、この四割五分は定免の終った翌年から享保一七年までも変ってない。このような本年貢の外、小物成といって薪・茶・竹・漆・麻苧・炭・蓿藤などにも課税せられ、庄屋給米四俵、小走一人三俵などを負担させられている。
○縮 川 村
石高 二三〇石二斗八升九合(三四町二反二畝)
田 一石八斗(一反二畝)
畑 二二八石四斗八升九合(三四町一反)
家数 一七六軒
人数 七九〇人(男三七七人、女四〇八人
出家一人、禅門二人、座頭二人)
馬 四二疋
年貢 享保一八年 六割四分
沢渡村で記したように前記七年の定免は六割八分、後期はこの村は元禄三年から三六年定免で七割二分、この率はなお享保一七年までつづいている。沢渡村から見て随分高率であるが、新田開発による反別の増加によるものであろうか、小物成も同様にあり、庄屋給米一二俵、小走三人給米一〇俵四升五合、使番給米三俵などの負担があった。
○久 主 村
石高 一四二石四斗四升(一八町四反三畝)
田 三三石八斗四升(二町一反三畝)
畑 一〇八石六斗 (一六町三反)
家数 一二二軒
人数 六七一人(男三二五人 女三四〇人
出家一人、道心二人、禅門二人、座頭一人)
牛馬 六三疋(牛一九疋 馬四四疋)
年貢 享保一八年 六割六分
前期七年の定免六割五分、後期三三年の定免から享保一七年にかけて七割となっている。やはりこの高率は縮川村と同様に村高はもとのままにしておいて開発された新田分を見越しての年貢率であろう。したがってこの率だけで高率と見るわけにはいかない。この村の小物成も前の二村と同種のものにかけられており庄屋給米一二俵、小走二人給米三俵三斗が村人に課せられている。