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美川村二十年誌

九、高岡金四郎(一八八九~一九六四)

 一八代村長、明治二二年五月一四日に横山の高岡長三郎の二男に生まれ、長じて分家し七鳥に居住した。昭和一〇年収入役、一五年助役、二〇年二月一三日に水元村長辞職の後を受けて村長となった。今にして思えば太平洋戦争もこの時点では日本の敗戦は明らかになっており大変な時期であった。こころみにこの頃のニュースを拾ってみると一月九日米軍ルソン島上陸、二〇日大本営本土作戦計画を決定、二月三日米軍マニラ進入、一六日米機動部隊日本に初空襲、三月一〇日B29一三〇機東京燃撃二三万戸焼失・死傷一二万、一七日硫黄島の日本軍玉砕、四月一日沖繩に米軍上陸開始、五日小磯内閣総辞職……と無条件降伏への艱難の道をたどるのである。各部落から河崎神社と岩屋寺に日参して戦勝を祈願し、在郷軍人は村民の戦闘訓練、動員令状の伝達等に奉仕していた。令状は昼夜を分たず、連日の出征兵士の歓送と戦死者の公報・村葬と村長は心を痛めつづけた。食糧増産・軍需物資の訓達・貯金の増強と指令のままに村民を指揮して銃後を守った。しかし戦局は悪化の一途をたどり敵機が日毎大編隊で襲来するようになり、避難川防空壕を造り、防火訓練・灯火管制、最後には男女を問わず竹槍訓練をした。こうした中で東川小学校の新築を成し遂げている。「激戦のため焼失せられるおそれあり」として許可されなかった工事を、秘かに疎開者共同住宅の名目で立案し、古釘を各家庭から収集して落成にこぎつけたのであった。八月一五日の終戦、進駐軍を迎えることになり村民は失望落胆、自暴自棄となり、牛を密殺して食い、焼酎・濁酒の密造など憂慮すべき事態を苦しみ抜いた。
 二一年一一月二三日付で大政翼賛会仕七川支部長の故をもって公職追放となった。僅かに在職一年一〇ヵ月に過ぎなかったが未曾有の非常時に責任者として辛酸を嘗め、報われることなく追放を甘受しなければならなかった。痛ましい犠牲者に感謝の意を捧げたい。その後は農事にはげみ、三九年五月三日七五歳で死去した。二男力が家業をついでいる。