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美川村二十年誌

一、黒川方徳(一八四〇~一九一三)

 天保一一年東川村に生れた。黒川家は代々河崎神社の宮司であったので氏子に敬神の心を養うかたわら、地域の先党者として指導的な役割を果している。明治七年、東古味郵便取扱所が出来ると初代所長となった。直瀬、杣川地区まで集配範囲であったため苦労も多かった。一八年東川村村会識長として橋の建設など、土木事業に努めた。松山・高知間の新道を仕七川経由にしようと計画し、「道路は村の産業文化の基礎である」と懸命に村民に説いたが理解されなかった。そのためこの幹線道路から仕七川が取残され不便を感じ、村民ははじめて方徳の先見の明を知り、全村的に里道改修の気運が高まった。明治二三年計画された滝渡瀬、高知県境間の土佐道は長さ九・五㌔、幅三・六㍍、当時としては立派なもので方徳の力に負う所が多い。またみつまた栽培の有望であることに着目し、三五年高岡村長に一五〇円の起債を求め、自ら製紙をはじめて村民にも指導した。大正二年、土佐道の改修工事が進められる中で七三歳で死去した。黒川家はその後、信義・未千夫が宮司をつとめ、現在未千夫の未亡人時子が家をまもっている。