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美川村二十年誌

第三節 衣 服

 衣服は晴れ着・ふだん着・仕事着の三種類に分けられる。
 晴れ着は、冠婚葬祭のほか、よそゆきとして着用する。大正時代までは、紋付きの羽織・はかまが流行したが、それ以後は洋装が多くなってきた。しかし、婚礼には和服が多く着用され、花嫁の洋装は皆無である。全国的に行なわれている七五三の祝衣装もなく、この風習もあまり関心はない。お祭りには少女のふり袖・コップリ下駄の可愛いい姿も多く見られる。
 ふだん着は、地味で丈夫なものが多い。これは長期間着用でき、流行に関係ないからであろう。老人の中には昭和三〇年ごろまで、モモ引きを着用し着物のすそを帯にはさんで歩いている姿が見られた。戦前まで着られた「インバ」「ヒキマキ」といった類も姿を消した。
 仕事着は戦前まで、男性はハンテンやモモヒキ姿であった。女性はタスキがけに腰巻をつけ、着物のすそはスネの高さに折り曲げて帯にはさんだ姿であった。
 戦時中は女性の服装に異変が起きた。モンペ姿である。また国防婦人会の制服がエプロンであったことから、会合や他家の炊事手伝いには必ずといってよいほど白エプロンを着用した。
 履物は、大正末期から急変した。このごろまでは、下駄・わらじ・わらぞうり、がほとんどであった。一般に地下たびが普及したのは、昭和の初期からであるが、昭和一〇年代までは、わらぞうりが多く使われた。そのころから、ゴム靴もだんだん普及していた。しかし昭和一八年ごろの小学校の児童は、まだわらぞうりをかなりはいていた。当時は、「夜なべ(夜業)」にわらぞうりを何足も作ってあすの仕事にそなえた。遠距離の小学生は一日で破れてしまうことも多く、このわらぞうり作りもたいへんであった。