データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

美川村二十年誌

二、消防組の設置

 本村に、消防組が設置されたのは大正元年八月一七日である。
 これまでに、東川組では組織ができており、七月にはポンプ購入の補助申請がでていた。村は消防組設置と同時に、役場の重要建物を火災から保護するために、村有ポンプを購入する予算も計上し可決された。予算額は一五〇円であった。こうして村内には、わずか二台ではあったが手押ポンプが設置されたのである。
 現在の動力ポンプでも、消火が困難であるのに、当時の交通通信の状態などを考えたとき、どれだけの威力が発揮できたかおよそ想像できる。しかし当時の村民にとっては待望のポンプであった。二手に分れて、「ヨイサ、ヨイサ」というかけ声とともに押し出す水の勢いに、村民は驚嘆したのである。
 当時の消防組は制服はなく、無給で青年団と在郷軍人によって組織されていた。名称を仕七川消防組といい、組員一三三名(組頭一名、小頭一、二名、消防手一二〇名)、を三部に分け、各部に部長一名、小頭三名、消防手四〇名ずっを配属した。この組織は大正二年と四年に一部変更されている。三部というのは、第一部七鳥西古味、第二部東古味、第三部東川本組である。
 大正一二年には、東古味、槇谷がポンプを購入し、四台となった。これを機会に、槇谷を第四分団とし、組織も一部変更され、組員の総計は一四一名となった。機械器具も充実され、纒四基、水運器六〇、組員用提灯六〇張となり、制服も全員そろえられた。この時、本村始めての火の見台が東古味のウシガウネに設けられた。(河崎神社の北東一〇〇メートル)
 昭和一二年、水押部落にポンプを購入し、ここを第五分団とした。(ポンプ代四四〇円、村一二〇円補助)このごろより日本は軍国主義の道を歩み始めており、戦場は中国大陸へ拡大しつつあった。
 一六年には、ついに、太平洋戦争に突入し、消防組は「警防団」と改称されて銃後国防の第一戦士としての責務も追加された。また、これまでは、ポンプのある部落だけが組織化されていたが、警防団は全部落が加わった。しかし、戦争の拡大につれて、青年は戦場に去り、団員は老令化を余儀なくされた。
 二二年八月一日、警防団はもとの消防団に改称され、組織も変更された。団員は一五二名となり、団長一名、副団長一名、分団長五名、班長二〇名という新陣容となった。この時の組織は次のようである。
 第一分団 筒城 仕出 七鳥 西古味
 第二分団 長瀬 竹谷 槇谷
 第三分団 東古味 横山 高山
 第四分団 東川 蓑川
 第五分団 中村 水押