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美川村二十年誌

一、無駐在所時代

 佃人の生命財産を保護する制度は江戸時代から整ってはいたが、これらは多分に権力的な性格を持っていた。民主的な警察は昭和二〇年からである。
 無駐在所時代の記録は少ない。幕末には水押で強盗がはりつけにされた。当時、殺人犯のような凶悪犯は松山藩の白洲で裁判を受けた。明治時代にはいっても村民は強盗には手を焼いたが、制度が整っていないため、不安な毎日を送るしか方法はなかった。
 このような中で、明治一〇年に本格的な警察制度ができた。しかし本村には駐在所は置かれず、郡内では一ヵ所、久万町に松山警察署久万分署が置かれた。そして月三回、定期的に巡査が巡回してくるだけであった。官服に長いサーベルを腰につり、わらじばきにきゃはんといういでたちであった。
 このような制度では、強盗の取りしまりなどは不充分である。それで、たびたび強盗がはいり、村民を恐怖に陥しいれた。明治一八年八月、村当局は自治組織で強盗を追い払うことにした。そして強盗防禦規則を作った。
 第一条  自家及他家に盗賊の犯来したることを覚知する時は速やかに左手続きを以て組内に通報すべし
  第一項 盗賊の入りたる家主は鉄砲壱声
  第二項 隣家より覚知したるときはひそかに銃砲を携え組長に通報すべし(第三項略)
 第二条  盗賊兇器を携え暴行をなすときは所持する銃砲を各人一度に猛発すべし(以下略)
 前述の規則の条項のうち、「銃砲」の発砲だけは、再三の申し入れにもかかわらず、県令の許可が得られなかったので、「鳴物」と訂正してほら貝や太鼓・鐘などを用いることにした。(明治三八年に東川に強盗が入ったときは発砲したそうである。)
 このほか、協力しなかった場合の罰金や負傷者への見舞金、死亡者の家族への養育費なども支払われるようになっている。しかし、その救助金は村民負担であり、無警察時代の損害は結局、村民がこうむっていたのである。
 久万分署はあっても交通通信は発達せず、機動力も電話もない時代であったので、このような悲壮な規則を作るより方法はなかった。