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美川村二十年誌

二、町村制実施後の道路

二、町村制実施後の道路
 明治二三年(一八九〇)には全国に町村制が実施されて仕七川村が生まれた。同年三月二日に初村会が開かれたが、その時、第一にとり上げられたのが村内の橋と道路の問題であった。
 この時すでに、松山高知予土横断道路は三坂まで開通し、翌年には高知まで開通の予定で道路整備は着々と進んでいた。
 仕出村・七鳥村・東川村が合併して役場を西古味に設置したが、村内の道路は整備されておらず、直瀬川・面河川には堅固な橋もなかった。そのため大雨ごとに交通は各所で寸断されていた。多額の輸送費を軽減する意味からも道路と橋の整備は急務であった。
 二四年六月には北蕃里道改さく組合が設立され、本格的な里道改修が行なわれることになった。この時の工事費を調べてみると、滝渡瀬橋(直瀬川)は三〇五円、モロブチ橋(面河川)は五一〇円、東古味・久主下間の里道、約五・六㌔は、幅員二・七㍍で、一㍍当たり五〇銭で合計三、五九七円であった。
 二六年、村会はモロブチに渡し舟を作ることを決めた。現在の仕七川橋の川上五〇㍍に、モロブチ橋があったが、仮橋ていどのもので、出水ごとに流失して交通止めとなり不便であった。
 二六年三月には、西古味に鷹森尋常小学校が新築落成し学童の通学にも便利なように村営渡し舟運行が開始されたのである。舟賃は、村民が無料、他村の者は一回八厘で、出水時は二銭まで徴収できることになっていた。初代渡し守は、上沖好太郎(天保一一年生)で、報酬は年五円八八銭であった。この人は親切な渡し守として好評であった。また二代谷窪兵太郎は、ユーモアたっぷりなサービスで、
   「酔たは伊勢の帰り道、兵太は古味の人気者」
と、歌われたほど村人に親しまれた。
 この渡し舟は、「モロブチの渡し舟」といって、伊予の人はもちろん土佐の人々も利用した。現在の仕七川橋下に太いワイヤーを張り、かなりの出水にも運行された。こうして、三一年後の仕七川橋完成まで継続された。
 二六年一〇月一〇日には、村民待望の滝渡瀬橋が完成した。ところが四日後の受取り検査の日、大暴風雨となり流失した。しかし、二八年三月末には補助金を得て、他の道路とともに橋を復旧した。
 三八年には高知県池川町へ通じる道路が杏之助駄場から境野まで完成した。これは馬道改修工事として行なったものであるが、道幅が二・七㍍もあり、当時としては思い切った見事な道路であった。
 同年八月一六日には、またもや大暴風雨が襲来してこの線の「一つ橋」と「滝渡瀬橋」が流失してしまった。(翌年復旧)
 四四年に時の村長高岡長三郎は、久主ノ下から池川町に至る土佐街道整備の必要性を痛感し土佐街道開通に関する促進準備会を結成した。当時の記録を見ると、青年団・在郷軍人それに、村民各戸が寄付や勤労奉仕をしている。それだけに、当時の人々が、交通整備の必要性をどんなに痛感していたかがよくわかる。