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美川村二十年誌

一、里道改修前の交通

 七鳥のバス停に立って、西方山手を見ると、東光寺の方へ幅約一㍍の道が伸びている。ふり返って、東の下方を見ると、熊野神社下の面河川に向かって、急傾斜の小道がつづいている。これが、旧土佐街道である。
 土佐街道は、古くから利用されていたが、江戸時代になって、伊予と土佐を結ぶ幹線として急速に発達した。この街道には松山札の辻を起点として、約四㌔毎に、「松山札之辻より何里」と刻んだ標石が立っている。
 東光寺の西、約五〇㍍に、「十里」の塚石があり、簑川の立石に「一里」の標石が現存する。
 むかしの道は、人々の往来によって踏み固められた足跡がしだいに小道となり、それに少し手を加えて、だんだん広くなっていったもので、幹線といっても道幅はせまく、一~二㍍で、急な坂や石だたみがあり、人や牛馬の往来しかできなかった。
 明治時代になっても、一般物資の輸送は、ほとんど牛馬が利用され、特に足の速い馬が多かった。里道改修前までは、荷物を満載した馬と馬の行き違いはたいへん困難であった。そこで、馬の首には合図の鈴をつけて往来した。「馬よ歩けよ 靴買うてはかそ 二銭五厘の わら靴を」という馬子唄とともに、馬の鈴の音は山村の街道にこだまして、のどかな風景であった。
 明治中期までの本村の主な街道は、水押経由の土佐街道、面河へ通じる杣川街道、御三戸へ出る久主下街道、槇谷経由の久万街道などであった。
 なお、木材の運搬には、牛馬や木馬のほかに面河川も利用された。中水時(ふだんより水の多い時)うしろ鉢巻に長柄のとび口を持った若者が、急流に浮かぶ丸太をあやつる様子は、まことに勇ましく、人目をひいたものであった。