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美川村二十年誌

一、仕七川小学校

 明治二六年、鷹森小学校創立(西古味)
 明治二三年の村会の議決によると、
 ①校舎は長瀬が、敷地は西古味が寄附する。
 ②各組各戸から、一人役ずつ奉仕するとともに、カヤ二束、繩二房ずつを寄附する。
 ③雑費一〇円を教育費から支出する。ということになっていた。さら
 に明治二五年の村会の議決によると、
 ①村内に三小学校一分教場を設置する。
 ②西古味へは早急に校舎を新築する。
 ③校舎完成までは、仮校舎を七鳥西光寺とする。
 ④建築費は、一般の寄付と各部落への配分徴収による。
ということで、工費三六〇円を以て明治二六年二月に西古味に鷹森小学校が竣工を見た。
 その後、明治三八年に筒城ドウナルに仕出小学校を新築し、同三九年に槇谷小学校を新築した。
 明治四二年に鷹森小学校を仕七川尋常高等小学校と改称して、東川尋常小学校・槇谷尋常小学校・仕出尋常小学校を廃止し、いずれも仕七川尋常高等小学校の分教場とした。そして仕出分教場では尋常科四年までを収容し、五年以上は本校に通学させ、東川・槇谷両尋常小学校では、義務教育六年を終了させることにした。また、竹谷・横山の家庭教育舎は廃止することに決めたが、地元民の反対で大正元年まで存置された。
 明治四五年に槇谷の高等科生を収容するため、男女二室の寄宿舎を新築した。
 大正一一年、東川尋常小学校独立。
 大正一五年、仕七川尋常高等小学校を東古味の現在位置に移転改築した。
 ①敷地五反歩は東古味寄付。
 ②整地費九二〇円、建築費一万二、一五〇円。
 ③敷地総面積一、七九五坪、(現北校舎)
 昭和九年、仕出分教場を廃して仕七川小学校に合併した。また、西古味にあった旧校舎を移転し、現西側校舎とした。
 同一六年に仕七川第一国民学校と改称し、二二年に高等科が廃止され、仕七川第一小学校と改称した。二九年に南側二階建校舎を建築した。
 敷地一七五坪、四二万五、〇〇〇円、工事費八三二万五、〇〇〇円であった。