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美川村二十年誌

第一節 小学校の出来るまで

 藩政時代の終りごろ、僧侶・神官・庄屋等を中心に、各所で寺小屋教育が行なわれていたようである。明治の始めの調査に、東古味に、当時の医師山崎広喜が師匠となった山崎塾と称するものの記録がある。
 しかし、一般に、「百姓は字を知らなくてよい。」という考え方が支配的で、村民の大多数は全く文盲であったようである。
 明治初期には諸所に寺小屋式の教育場があって、教育が行なわれていたようで、その主なものは次のようである。
  横山家庭教育場(民家を利用)
  東古味家庭教育場(中組の堂)
  東川・東泉寺教育場
  七鳥・西光寺教育場
 その他、私塾もあったようであるが、いずれも習字・珠算・素読の域を出ないものであった。