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美川村二十年誌

第三節 人口動態

明治三五年法律第四九号国勢調査に関する法律で人口調査が行なわれたが、それ以前は戸籍簿等による集計人口数が基本となっていたようである。
 従って、仕七川村の人口動態も、明治三五年以前のものは資料が不完全であって役場庶務書類・戸籍簿・戸表等を調査して別表のような人口動態表を作ってみたが、不備の点が多い。
 人口の推移 昭和一五年から二五年までの一〇年間に出生一、三八五名に対して、死亡は五八二名、転出者は二四一名である。
 本村人口の転出現象は大正末期ころより見られ、昭和二五年以降は特に多くなり、転出数が自然増加数さえも上回っている状況である。昭和二五年から三〇年までの五年間に二八一名減少しているのも、一家族ぐるみで、主として松山方面に転出したことが主原因である。
 また、二〇年の人口が前年に比して異状に増加した原因は、終戦になって軍人の帰還、海外からの引揚げ、都市からの疎開者等が転入したためと見られる。さらに同年の死亡数が非常に多いのは、戦死者二二名を含めて諸物資の欠乏による衛生管理と療養の不完全・医薬品の極度な不足によって死亡率を高めたものと推定できる。
 ここにも、戦争による悲惨な社会現象を数字の上からも推察できるであろう。
 出生 本村の出生状況は、年を追って上昇し、昭和一〇年には一六一名にも達している。それ以降はやや低下して一進一退を続けたが、太平洋戦争を契機として急減した。これは青壮年が多く戦場に応召されたためである。
 死亡 死亡率は一進一退の推移をたどってきたが、明治三〇年の死亡率(人口一〇〇〇に対して) 一七、大正一〇年二〇・五、昭和二五年九・六、と急激な低下を示している。これは全国的な傾向であって、環境衛生の発達と食生活の改善向上および医薬品の発達等がその原因と思われる。

仕七川村人口動態の年代推移(明治20年~昭和30年)

仕七川村人口動態の年代推移(明治20年~昭和30年)